湯船に揺れる黒い髪
まさか……。
木々の間から太陽光が何本も射し込んでいる。その中心にリュウセイが立っていた。彼は光そのものだった。
その存在に誰もが魅了され惹きつけられる。
そう、誰かが言っていた。王都に現れて数ヶ月、超人気の楽士として、瞬く間に有名になった男だと。
なぜ、気づかなかったのだろう。
一介の楽士とは思えない品格と威厳。
これこそ紫龍の圧倒的な力なのだろう。
……
周辺国が
わたしは、その場にひざまずき、拱手しようとして止めた。
今は気づかないフリをしよう。
彼の正体に対しても、理不尽な謀反に対しても。
「聞きたいことはないか」と、彼が言った。
「なぜ、わたしを救ったのか、その理由がわかりません」
「なぜだろうな。俺はこの国の人間ではない。干渉するつもりもなかったが、王都で出会った娘が、やたら気になった」
リュウセイは、いつもように歩きはじめた。
──彼が
「なぜですか」
「もう聞くな。面倒な話だ。いや、違うな。面倒を避けようとしたが、逆に巻き込まれてしまったようだ」
彼は前を歩いている。これ以上、話したくないようだ。
この数日。何日か忘れてしまったが、たぶん、七日以上。一緒に過ごして気づいたことがある。彼はひとりが好きということだ。
わたしと一緒にいても、ときどき、ひとりになる。
今もそうだ。
わたしの存在を忘れたかのように、空に見上げ、気持ちよさそうに目を閉じ、口もとを引き締め、匂いをかぐように首を振る。
軽く笑みさえ浮かべている。
その姿は無頓着で、何者にもしばられていない。わたしの存在など、まるでないかのようだ。
彼の陶酔に呼応するかのように、森が鳴いていた。
鳥の声、
木の葉のざわめき、
風のゆらぎ、
大地の音。
すべては奇妙な統一感があり、不思議に美しい。
リュウセイがこちらを見た。現実に戻ったような表情を浮かべている。
「ごめんなさい」
思わず謝罪の言葉を口にしていた。
申し訳ないと思った。
これまで、わたしは自分が他人に与える影響にいつも注意してきた。だから、どんなに辛いときでも、陽気に振舞うようにした。
しかし、彼に救われた夜、陽気どころか、相手を気遣う余裕すらなくなった。わたしの態度は酷いものだったろう。
「あなたは、面白いな。いつも、突拍子もない」
「ずっと酷い態度で、それが申し訳なくて」
「気にするな」と、彼は笑った。
「さあ、行くぞ。おまえは俺の婚約者だろう」
「え?」
「ランワン王から頼まれたのだ。こちらに婚姻を申し込みながら、国境でイザコザを起こす。二枚舌は気に食わない。どうにも国が定まってない。どうするか様子を伺ったことが裏目に出たようだ。謝る必要はない。婚約してもいいと思っている」
心臓が爆発しそうになって、わたしは黙った。
身分を自ら、名乗った。思わず、拱手した。
「
「ああ、やめろ。ともかく、隠れ家にいくぞ」
「は、はい」
わたしたちは、また、いつもそうしていたように黙って歩いた。それは、今までとは異なり、すこしだけ心地よいものだった。
森の途中で、「この上だ」と、彼は言った。
目前には、長い階段があり、上って行くと開けた場所になった。こじんまりとした屋敷が見える。木を伐採して平坦地を広げ、つくった隠れ家のようだ。
「あそこだ」と、リュウセイが示した。
いかにも
いったい、誰が、なんの目的で、このような屋敷を作ったのだろう?
ここはランワン王府なのだろうか?
それとも、他の国?
──そんなことは、どうでもいい。
わたしには渇望しているものがある。それは、人として暮らせる落ち着ける場所だ。
木造りの門に近づくと、ごつい体格の男が現れた。
彼はリュウセイの前でひざまずき、力強く拱手した。
「準備はできております。殿下」
リュウセイは男を無視して、前に進む。美しい顔は無表情だと、さらに冷たく近寄りがたい。彼は引き戸を開いた。少しカビ臭い匂いが漂ってくる。
──まだ、信じがたいけど、彼は
体格のいい男は、人の良さそうな顔をしたまま、その場にひざまずいている。
「入って」
屋敷の内部は、扉のすぐ先が土間になっており、カマドと卓があった。隣の部屋は一段高い板の間になっている。
一階は、その二部屋だけ。
「おいで」と、彼が言う。
階段を上っていく。
二階も板の間になっており、障子の窓が大きく開いていた。
風にそよぐ木ばかりで、周囲に建物はない。
おだやかな風景に心が癒される。
「美しい」と、思わず呟くと、リュウセイが背後に来た。
「狭い家だが、この景色は素晴らしい」
彼がわたしの肩に手を置いた。
「長い旅だったが、よく我慢したね。
「ありがとうございます」
リュウセイは一階に降りると、もう一つの小さな部屋に案内した。そこには大きな樽のような桶があり湯が沸いていた。
「あ、あの、ここが」
「そうだ」
「服をぬいで入るのですか」
「そうだ」
「わ、わかりました」
リュウセイは部屋から出ていった。
旅に出てから軽く川で水浴びするくらいだから。ひさしぶりの湯にはほっとする。
裸になって、恐る恐る樽に入った。少しぬるいけど、これまでの疲れがすっと抜けて心地よい。
その時に気づいた。この浴槽では身体を何で洗うのだろうか? 周囲を見渡して途方にくれた。
「リュウセイさま……。あ、あの、リュウセイ?」
「どうした」
外に開いた格子窓から声が聞こえてきた。
「あ、あの」
彼が浴室の扉を開けた。樽から顔だけ、ちょこんとだして聞いた。
「あ、あの。本当にごめんなさい。どうやって身体を洗うのか。石鹸とか、あの、わからなくて」
「そうか、自分でしたことがないんだな」
「は、はい」
彼は首を振って、それから、手で頭をかいた。
「まったく、俺に教えを乞うようなことか。よい、一度だけ教えよう」
「す、すみません」
彼は、ずかずかと入ってくると手を伸ばした。その先には棚があって、布と白い固形物があった。
もしかしてあれが石鹸だったの?
わたしの知っている、いい香りのする液体の石鹸ではないのだけど。
彼が樽に近づいたので、「あっ、あの、恥ずかしいですから、目を閉じてください」と、思わず叫んでいた。
「今更、恥ずかしいか」
「あ、あの」
「黙りなさい」
「はい」
彼は近づくと、湯に布をつっこみ、そこに白い個体を擦りつけた。しばらくすると、泡ができた。胸を樽の板で隠して、それを見ていた。
「これで、身体を洗う」
「あ、ありがとうございます」
彼は、そこに立っている。
格子窓から太陽光が届いているけど、ロウソクのない部屋は薄暗く、湯気の立つ部屋では彼の顔が幻想的にぼやけている。
「あの」
彼は楽しそうに、ほほ笑んだ。
困った……。
(つづく)
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