【完結】紫龍と姫と、天界の神〜魔性の放浪楽士と王女の恋物語〜

雨 杜和(あめ とわ)

第一章 出会い

運命の出会い

 


 その日、わたしは恋に落ちた。

 その日、わたしはランワン王府の都に来たばかりで──、


 そう、その日だったのはまちがいない。




 わたしの名前は麻莉まーり。ランワン王府の王女であり、父はこの国を治める王だった。


 幼い頃から、ずっと田舎にこもっていたわたしは、はじめて見る都の喧騒に、賑わいに、押しつぶされそうな気分で憂鬱ゆううつだった。


「人が多すぎるわ。窓のすだれをおろして」

「王女さま、お疲れですか?」

「ええ、浜木ばんむ。都って激しいのね」


 乳母の浜木ばんむが牛車の窓を閉じようとしたとき、「麻莉まーり」と、わたしを呼ぶ声が聞こえた。いえ、実際には呼ばれたと勘違いしただけのことだけど。


 叙情的な低音が響く美しい男性の声だった。

 その声は月琴げっきんの音色に重なって、わたしを呼んでいた。


「止めて、浜木」

「王女さま。お急ぎにならないと、王さまがお待ちです」


 浜木は不満そうな顔を浮かべたが、牛車の天板を杖で叩いた。


 牛車が止まった。

 御簾みすを開けて顔を出すと、一陣の風が吹き、ベール付きの漢服帽がはね飛んだ。


 従者が牛車の前部席から飛び降りて、それを追う。


 その先に人溜まりがあった。歌声はそこから聞こえてくる。

 とても不思議な声だ。声量ゆたかで、あらゆる音域に達する声は、悲哀に満ちたもので。


 わたしを乞うように、その天上の声が迫ってくる。

 鳥肌が立った。身体の芯が熱く燃えた。



『マリーア、マリーア


  わが恋人

  野の果てで嘆こう

  あなたへの思いを

  

  絶望の底からわたしを救ってくれる


  マリーア、わたしの喜び

  マリーア、わたしの愛』



 高音部が、ひときわ美しい。人の声とは思えない。まるで笛を鳴らしているようだ。


「お姫さま、どうなされたのですか」

「あれは? あの声は」

「おおかた、物乞いの放浪楽士ほうろうがくしが歌っているのでございましょう」

「はじめて聞く曲だわ」

「確かに、珍しい旋律でございますが」

「浜木も聞いたことがない?」

「はじめてですけれども。しかし、お姫さま。楽曲というものは、あのように悲しげに歌ってはなりません。音楽は人を楽しませるものですよ」

「そうかしら、わたしは好きだわ」


 牛車の横腹を叩く音がして、浜木が声をかけると従者が御簾を開いた。


「漢服帽でございます」と、彼は目を伏せた。

「あそこで歌っている人を見ましたか?」

「あの人だかりでございますか?」

「そう」

「黒髪しか見えませんでした」

「お時間に遅れますよ。王さまがお待ちでございますから。もうこのくらいで」と、浜木が心配顔でせかしている。


 従者が御簾を閉めた。


「いいわ、行って」


 浜木が天井を叩くと、御者が牛の手綱を操った。


「待って、浜木、止めて」

「どうなさったのです」


 理由なんてなかった。このまま行ってはいけない気がしたのだ。

 牛車を止めると、漢服帽子をかぶり直してベールをしっかりと顔に下ろした。


 歌声はわたしを誘うようにまだ続いている。


「マリーア、マリーア」


 なぜ、そんな切ない声で呼ぶのか。

 往来の人を避けながら、石畳を歩いていく。背後から浜木がついてくる。


 歌が終わった。


 大きな拍手がわき起こり、人々が賞賛の声をあげる。

 銭が投げ入れられるチャリンチャリンという音が響いて、しばらくすると、人々が去り輪が崩れた。


 彼が……、いた。


 うつむき加減に優美な動作で楽器を片付けていた。

 長い黒髪が顔を隠している。


 理由もなく、この男が人でないといいと思った。醜い獣人か、あるいは老人であって欲しいと、なぜだかわたしは望んでいた。そうすれば、この場から軽く立ち去れるだろう。


 視線に気づいたのか、男が顔を上げた。


 肌は日に焼けた黄金色、瞳は茶系、見たこともない不思議な輝きを持つ茶色で。美しくも精悍せいかんな面立ちだった。切れ長の目に長いまつげが影を落とし、孤独の影が浮かんでいる。


 彼は冷たい目で、わたしを見つめている。

 黒髪が砂漠から吹いてきた風にゆれた。


 わたしはその視線から目をそらすことができない。


 初対面の人と、まして男性に話しかけるなど、でも、考えるより先に言葉が出ていた。


「あなたはどこから来たの?」


 彼はゆっくりと首を傾けた。静謐せいひつな湖面に一滴の水が落ちて波紋が広がるような美しい仕草。



 その出会いは運命だった。



(つづく)

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