恋に落ちた日
「お姫さま、そろそろ戻りませんと」と、
「そうね」
わたしは立ち去ることができなかった。
行こうとしたが、足が動かない。
「あなたの名前は?」
男は黙っていた。首をかしげ、ゆっくりと視線を合わせてくる。それから、
この男は人との距離感を間違えている。とくに、地位のある女性に対して、このような態度は無礼そのものだ。
頭のなかで、カンカンカンという警戒音が激しく鳴っていた。
細長く美しい目が揺れる。
「リュウセイです」
「リュウセイ何ですか」
「単にリュウセイと呼ばれています」
彼は落ち着き払い、いっそ無関心で、わたしをいたたまれなくする。
男が手を伸ばした。
「無礼な」と、思わず叫んだ。
彼はふっとほほ笑んだ。それから、横を見てうつむく。よく見ると、頬がゆるみ、笑っているようだ。
──なんて、ほんと、なんて、無礼な男なの。
怒りに身体が震えてしまう。それは、怒りなのか、
男が一歩近づき、わたしは一歩あとずさった。
「あなたの、お名前は」と聞かれた。
話す前に一拍おく深く透明感のある声、まるで関心などないとでもいうような、もの
「わたしは
「
「マリア? どなたなの、その方は」
「遠い……、遠いところにいる。別の世界の女性です。ずっと探し続けている」
「その人はどこかへ行ったのですか?」
「そうとも言えます」
胸奥がさわいだ。それは、たぶん、愛する女性なのだろうか。彼が愛する誰かを詩に込めて歌っているのだろう。その彼女は今はいない。
「またお会いできるでしょうか?」
「僕に、ですか?」
驚いたような、めんどくさそうな声が針となって心臓を突いてくる。
「ええ、あなたに。というより、あなたの歌に」
声が細くなった。
「僕は、いつもここで歌っているわけではありません」
「では、どこで歌うの?」
「呼ばれた場所で」
「お姫さま」と、浜木が強い声を出した。
「王さまがお待ちですから」
リュウセイは、私よりかなり背が高く見上げるしかない。
「二十三日に王宮で
「お、お姫さま」と、浜木があわてた。
天上の声を持つ男は、均整のとれた体格を優雅に動かすと、頭を軽く下げてお辞儀をした。それは見たことのない奇妙な礼の仕方だった。
「浜木、彼に前金として金子を渡して」
金の話は侮辱的だと思った。言ってから後悔した。雇い人としての力を誇示したい子どもじみた動機だったから。
リュウセイはとまどったような視線で首を傾け、無表情になると声が冷たく沈んだ。
「先払いしていただく必要はありません。王宮で開かれる
「三日後の二十三日の夜よ」
「存じております。では、再びお会いするのを楽しみにしましょう」
『常に自制心を大切に。口もとに微笑みを絶やさず、品の良い所作で、
おたおたしていると、リュウセイは去ってしまった。
──やはり、とても無礼な男だ。
浜木に急かされて戻ると、すぐに牛車が動いた。
顔の火照る自分が許せなかった。ああ、なぜ、あんな態度を。牛車のなかで自分の愚かさを呪った。
これが放浪楽士リュウセイとの最初の出会いだった。
そう、その日、すでにわたしは恋に落ちていたのだ。品位のかけらもない。ただの世間知らずの少女のように。わたしは恋に落ちた。
(つづく)
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