江湖に囚われた美しい姫



 わたしは十八歳になるまで、江湖の森に囲まれた父の家で育った。


 この家を普通に家と呼ぶ人は少ないけれど。

 実際は、『王妃の別邸』とか『あのランワン王の別宅』とか呼ばれている。その名に、少しだけ恥ずかしさを覚えてしまう。だって、この屋敷は私のためだけに、莫大な浪費をしているのだから。


 父は、弱小国家ランワン王府の王であり、わたしをここに閉じ込めることで、大切に養っていると思いこんでいた。


 わたしの母である洋散子ようさんしは、十三年前、ランワン王府の特使として隣国に向かい、そこで殺された。


 出立する前、母は江湖のわたしのもとに訪れた。


麻莉まーり、かの国で行われる聖なる龍の祭典を視察してくるわ」

「お母さま、わたしも行ける?」

「これはお仕事ですから。それに、いいこと、麻莉。そのように人におねだりするのは、卑しい者のすることですよ」


 そう言って出かけた母は、式典で気の触れた龍に殺された。いまも、龍の呪いで氷づけになり、その惨めな姿を地上に晒しているらしい。


 父は大いに嘆き悲しんだ。

 数日、部屋に閉じこもった後、「麻莉はどこにいる」と、わたしを呼んだ。

 五歳だったわたしは、その死を深く理解していなかったと思う。


 父はわたしを抱きしめると、ペットとしてポンポンをくれた。細く長いモフモフの尻尾と長い耳を持つポンポンは希少な奇獣だ。特に黄金色に輝く体毛が、暗がりでうっすらと周囲を照らす珍しい種だった。


 わたしは一瞬で、とりことなり母を忘れた。


「慰めになろう」と、父は悲痛な声でわたしを抱きしめた。


 それで父を慰めるべきかどうか当惑した。五歳のわたしには父が何を望むかわからなかったからだ。今もわからないけれど。


「麻莉、おまえは辛くないかい?」

「お父さま、わたし、そういう気持ちを持てないの」

「それは、残念なことだよ。お前の母ほど美しく賢く、そして、素晴らしい女性はいなかったのだから。お母さまを、これからもずっと誇りに思いなさい」


 そう、母は偉大な人であった。欠点など全くない。多くの人々に尊敬され、美しく。そして、残酷だった。


 わたしは覚えている。

 母の目は、いつもこう語っていた。

『わたしの娘なのに、なんてお前は平凡なの』と。


 母亡きあと一ヶ月もすると、父は王としての役目を思い出した。あるいは、田舎の刺激のない日々に退屈したのかもしれない。


 そして、都に戻った父は、江湖に帰って来ることはなかった。

 わたしはひとり堅牢な別宅で、贅沢な生活を与えられた。


 友人といえば、同じ階級の子供しかいない。


 その一人、珠花じゅふぁは貴族の家に生まれた肉感的な美人で、十五歳で両親の住む屋敷に戻った。そして、たまに江湖に来ては、都で自分がいかに花形であるか語り、大げさに嘆いてわたしを笑わせた。


「ああ、哀れな麻莉マーリ」と、彼女は劇的な口調で会うたびに言うのだ。

「こんな堅苦しい場所に、ずっと囚われた箱入り娘。なんて謎めいた存在なの。あなたは、きっと幸せな恋をするにちがいないわ」

「まあ、なぜ?」

「おお、麻莉。都には狼がいっぱいなの。わたしは哀れにも、奴らにも食い殺されるにちがいないのよ。だから、田舎の屋敷でポンポンと過ごすあなたが羨ましい。あなたは、いい恋しかしない運命よ」と、信じてもいない言葉を口にする。


 それはまるで砂糖菓子のように、口の中で溶けてしまう空虚な言葉だ。




 これは都でリュウセイと出会う一週間前のこと。日々は昨日も今日も、そして、明日も同じように生ぬるく過ぎていくはずだった。


 初夏のけだるい午後、二階にしつらえた欄干らんかんで本を読むわたしのもとに、浜木が走って来るまで、もう数秒しか残っていなかった。


 運命の時が近づいた。


(つづく)

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