崑崙のふもと
──リュウセイ、あなたを感じるわ。あなたは、どこにいるの?
森の奥へと、焦って入ろうとしたが、いつまでたっても同じ場所をぐるぐるしてしまった。強力にはられた結界で、霧がわき、わたしを惑わせる。
面倒なことをするわね、リュウセイ。
誰にも邪魔されたくないのかもしれないけれど……。
背中が熱くなっている。
紫龍のアザに触れると、熱をもっている。これは、たぶんリュウセイの声。熱は冷めたり熱くなったりする。熱がさらに高くなる方向へ歩く。
──さあ、わたしを受け入れなさい、リュウセイ。
熱に導かれ歩いて行くと、霧が薄ぼんやりと晴れていく。
さらに中へ中へ。
森を分け入り、木を切り開いた場所に到達した。
ああ、この場所は知っている。
知りすぎて、胸が熱い。
リュウセイは、あの屋敷を模倣して家を建てたようだ。あの、ふたりで逃亡生活をしていた頃に住んだ屋敷と寸分たがわない。
どうしようか、リュウセイ。
この、わたしの老いた姿ではイタズラが過ぎる?
それとも、すぐにわたしとわかる?
息を大きく吸う。森の新鮮な空気が肺を満たす。なんていい空気なのだろう。自然がわたしを抱いているようだ。
周囲のもやは、まだ残っている。屋敷あたりにも薄い霧がたちこめ、本当に幻想的だ。あの屋敷に似ているが、幻夢の世界のよう。
ふわふわした気分で、屋敷の前に来た。
開き戸に手をかけると重かった。そうそう、あの家は古く、戸を開けるのにコツがいった。こんなとこまで忠実なのがほほ笑ましい。
ガタガタと音をさせ、木戸を開く。
カマドの前に椅子があって、リュウセイが毛布を肩にかけ月琴をつま弾いていた。
──帰ってきたのか。
彼は、こちらを見ない。
あいかわらず均整のとれた魅力的な姿で、どんな女でも冷静にはいられないだろう。
彼は頑固に月琴を爪弾いている。
天界の皇子は誇り高い。
きっと怒っているのね。ああ、なんてかわいい男なの。吹き出しそうな思いを抱いて、わたしは声をかける。
老婆の声は
──ええ、帰ってきたわ。あなたは何をしていたの?
──曲を作っていたところだ。
──曲?
──そうだ。時間は長いという主題だよ。
──待った?
──おまえの想像以上だ。
月琴を陽気にかき鳴らして、彼は楽しい曲を演奏した。
ああ、一瞬でわたしを虜にする彼。
──ここにいるということは、すべてはうまくいったのか。
──ええ。リュウセイ。まだ、怒ってる?
──ああ。
まちがいなく
──いいわ、最初から許してなんて思っていないから。
彼がこちらを見た。
わたしの姿を見て驚いた顔をした。
──おまえという奴は。何年も待たせて、その上、装うという気遣いもないのか。
──年をとったわたしでも愛していると
──だから、言葉を残しておいただろう。もう俺を試すな。
カマドから薪が燃えるパチパチという音が聞こえる。鍋がかけられ、なにか料理をしているようだ。
──食事を作ってくれたの?
──腹がへったのは、俺だ。待ちすぎて、飢えている。
その瞬間、過去の記憶がなだれ込んできた。懐かしい思い出が波のように蘇る。遠い昔、人間界で過ごしていたときだ。
わたしは料理もなにもできず、よく彼の手をわずらわした。
ある日、カマドで野菜汁を作ろうとしたのだが、はじめての経験で何もかも難しかった。
鍋を火にかけようとすると、彼が慌てて飛んできたものだ。
──危ないぞ。人間の肌は弱い。
──大丈夫よ。
──いや、これは普通の鍋に過ぎないが、だが、おまえが持つと危なっかしくて、見てられん。まったく、鍋がこんな凶器だとは思わなかった。
彼は心から楽しそうに笑った。
──鍋が凶器?
──そうだ。お、おい、火傷するぞ。ほら、湯が吹きこぼれ出しそうだ。カマドの火が、あっ!
──きゃあ!
わたしは野菜汁を作ろうとして、鍋の中身を盛大に吹きこぼしてしまった。カマドに落ちた汁が、もうもうと黒い煙を上げている。
幸い
でも、ふたりで後始末をするのも楽しかった。顔は真っ黒になり、彼は「近づくな」と、わたしをからかって逃げた。
なんでもない日の、なんでもない日常の、その時は意識もしなかった本当に幸せな時間だった。こんな日がずっと続けばいいと願った。
あれは、もう何十年も昔のことになる。その同じようなカマドで鍋が煮立っている。
──あのね、リュウセイ、思い出したわ。
──なんだ?
──黒煙で顔が黒くなると知った時のことよ。
──あれは、確かに面白かったな。
彼も懐かしそうに笑った。
──おまえは、とてもひどい顔だった。
──まあ、あなただって。
──怒っていたね。
──あなたは笑っていた。
──ああ、炭で真っ黒なおまえは、とても可愛かった。
彼の声が心臓に響く。暖かく深く、いつも心臓をわしづかみにする。
──わたし、やり遂げたわ。
──そのようだ。
顔をあげた。
──それだけ?
──他に言いたいことがあれば、話すだろう。
リュウセイは、わたしの顔に手を伸ばして、頬を両手ではさんだ。彼の熱が頬に伝わる。
その時、ふいに、同情心がわいた。
このうらぶれた屋敷で月琴を弾きながら、どんなに待っていたのだろう。
過ごしてきた孤独の時間を考えると、愛おしさに胸が痛くなる。
──ずっと、あなたからもらうばかりだったわ。どう返したらいいのか、わからないほど。
──愛とは貸し借りではない。
──では、わたしは借りっぱなしになりそう。
──そうだな。せいぜい、借りを負担に感じてほしい。いつか……。
その言葉の途中で、彼はわたしを抱きしめた。
──待ちくたびれたぞ。
わたしたちの姿が鏡にうつっていた。
美しいリュウセイ。まったく変わらない、魅力にあふれた若く精悍な男が老婆を抱いている。
わたしは脱皮するように、むかしの若い姿に変化した。
──マリィー、なぜ、その姿で最初から来なかった。
──どんな姿でも、あなたがわたしとわかるか、知りたかったの。
──本当に欲張りだな。
この低く響く声。涙が溢れそうだ。立ち上がろうとすると、リュウセイが手をつかんで引き戻した。
──マリィー……。
──あの、わ、わたし。がんばったの、本当にがんばったの。
──ああ、誇りに思うぞ。だから、泣くなら俺の胸で泣け。そして、二度と俺から離れようとするな。
彼はわたしを胸に抱いた。
耐えきれずに声を出して泣いた。どうしようもなく全てを吐き出して、いつまでも泣き続けた。そんなわたしを、リュウセイはずっと優しく胸に抱いていた。
(つづく)
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます