寧寧、わたしを妻へと望まれても
以前、父の執務室だった部屋に向かった。現在は
執務室に入ると、すぐに王公苑が何か言おうとしたが、声が裏返っていた。
「麻莉王女、あれィ」
さすがの叔父も、先ほど目にしたものが、理解できないのだろう。幽霊にでも出くわしたかのようだ。それも、あながち間違いではない。
彼に衝撃が残り、動揺している間が、わたしに残された時間だろう。
「あ、あれは何なのだ」と、
「何ではないのです、叔父さま。あの方は……、いえ、あれは
天界のことを話しても無駄だろう。たとえ、大理石の長卓を割られたとしても。彼は根っから即物的な人間だ。だから有能だろうが、信じたいものだけを信じる頑固者でもある。
夢見がちという言葉ほど、
「憑依した者とは?」
深く考えないで欲しいものだ。適当に言い
「本物の青飛龍王子に今は戻っています。彼には、この間の記憶がないはずですから。うまく言いくるめてアロール王府に送り返してください。それは、叔父さまには得意なことでしょう。何かに呪われていたとか、適当な呪符でも用意してください。わが国に来てらしたから、お祓いしたとか、なんとかと」
「そうだな。アロール王府に戻って、殺されかけたと訴えられては、面倒になる。……内官」
「ここに控えております」
「今の話を聞いたか。王子の意識が戻っても何も言うな。わしから説明する。それから、アロールの儀仗兵たちは別宅に案内して、丁重にもてなしておけ」
内官はすり足で消えた。
「叔父さま、では、わたしの望みを申します。わたしは、すぐに父とともに王宮を出ますが、腹違いの弟は頼みたいのです。将来、王家を継ぐ者がいない場合には、彼に。そうでなければ、相応の待遇をしてやってください」
「よかろう。それで、王女。あなたはどこへ行くつもりか、話しあう必要があるな」
「わたしは貧民街に住む民たちの世話をします」
「馬鹿な」と、黙っていた寧寧が呆れた。
「本気ではなかろう。あなたのような育ち方をした者が、そのような貧しい民とともに生活するなど」
「いいえ、本気です。わからないでしょうけどね。でも、これには意図があるんです。わたしを待っている者がいます。その人のため死に物狂いで努力しても、その人が受けた苦痛を考えれば、これは容易いことなんです」
「言うておることがわからん。
「そうです。これまで恵まれた生活をして、この国のことを全く知らなかった。飢え、乾き、病気に苦しむ多くの民がいるのです。彼らは明日への希望さえもない。そんな者たちのために、私財を売って居場所を作るつもりです」
「……」
「父は王として無能でした。民の生活を見て、叔父さまのなされたことを理解はしています。許すことはできませんが」
「良い治世を行う名君になってください。わたしは、その姿を民とともに見ています」
「麻莉王女」と、寧寧は額にシワを寄せた。
「わたしは、あなたのためなら、なんでも差し上げたい。これは真心からの思いなのだ。どんな贅沢な生活も思いのままだ。わたしの妻になりなさい。王妃として、民に尽くせば良いであろう」
「それでは、足りないのです」と言ってから、「天の門をくぐりたいのです」と、小声で呟いた。
この利己的な目的のために、わたしがすることを天は受け入れてくれるだろうか。
神仙への道は自ら切り開かなくてはいけない。リュウセイが助けることはできないのだ。それを知っているからこそ、文句も言わずに彼は天に帰った。
きっと、内心では怒ったことだろう。
彼という男は、自分が支配できない状況には我慢がならないはずだから。
だから、短刀で問答無用に刺した。わたしは、たぶん、あの人に甘えている。
「これでわたしの話は終わりです。父に医官をつけてください」
「それだけで良いのか」
「ええ、準備ができたら、父を迎えにきます。それほど、長くは待たせません。それまで頼みます。戴冠式だけはでますから、それで、あなた方の面目は保てると思います」
現実家の
だからといって、これ以上、説明することもない。
王宮を出てすぐ、わたしは都の外れ、母がもっていた広大な土地と屋敷を、貧民に解放するための準備をはじめた。
美麗な服も、宝石も、すべてを金に変え、風呂敷一枚で足る身の周りのもの以外、すべてを売り払った。
もう昔のわたしとは違う。
商人との駆け引きも我ながらうまくなったと思う。
「王女さま。ヒヨリでございます」
ある日、わたしの元に女が訪ねてきた。彼女は浜木の下で働いていた侍女だった。
数名の元侍女が、わたしの元に来た。
「王宮での仕事を紹介してもいいのよ」
「王女さま」
「王女では、もうないの。麻莉よ。そう呼びなさい」
「そんな滅相もない」
最初はオロオロしていたヒヨリも、日が経つうちに麻莉さまと呼ぶようになった。
そんな仲間が増えていった。
最初は病人を受け入れ、彼らのために生活できる場所を提供した。その後、彼らの自立のための更正施設も作った。
そのために資金はいくらでも必要だった。数年で財産を食い潰したが、その頃には救った者たちが、なぜかわたしの背後にいてくれた。
わたしのたったひとりの友、
「いいこと、この美しいわたしに食事を与えてもらえるなんて、光栄に思いなさい」と、彼女は患者たちに怒鳴る。
「ええい、汚らしい。少しは身体を洗って。虫がたかっているじゃない」
そんな文句ばかりを言いながらも、現実的な彼女は、とてもよい共同経営者になっていた。
そうそう、リュウセイがつけてくれた
いろいろなことがあった。
過ぎてみれば、みな思い出だ。
リュウセイと過ごした数ヶ月と、その後の年月はあまりにかけ離れたものになった。
最後の瞬間、彼女はわたしに告白した。
「わたしのかわいい麻莉。この世で唯一愛した人なのよ、知っていた?」
「ええ、知っていたわよ、
「悪い子ね」
「あなたも」
それが最後の言葉だった。
そして、今、わたしのささやかな一生を閉じる日が来た。
わたしは六十五歳になっていた。
この世界では長寿のほうだ。
肌は衰え、あの頃のような元気ももうない。
リュウセイとともに生きた数倍の年月を彼なしで過ごしながら、わたしの心は終生、彼とともにいた。
「そうでしょう、リュウセイ」という自分の声がしゃがれて聞こえる。
「聖母さま、なんとおっしゃっているのですか?」
忠実なサヨリが、わたしの寝床にひざまずいていた。
「なんでもないわ、サヨリ。そろそろわたしの時間が終わるようですよ」
彼女は泣いていた。
彼らはみな、わたしが助けた者や働いてくれる者たちだ。
みな、一様に涙を浮かべている。
「ああ、バカな子たちね。わたしには待っている人がいるのですよ。泣かなくても良いの、ずっと、ただ、この日を待っていたのですからね」
ああ、わたしの声は、なんとゆっくりとしか話せないのだろう。話すとかわいた咳がでる。身体が乾いてしまったのだろう。
「聖母さま、わたしたちを見捨てないでください」
「悪いわね。わたしは聖母でもなんでもないのですよ。だから、ここに、あなたたちを残して行くわ」
その時、外部から騒がしい音がした。
「王さまの御なり!」という声が聞こえる。
愚かな
あなたは、最後まで結局、わたしを見捨てることをしなかったわね。いつも影から支えてくれた。だから感謝してるわ。あなたの治世はとても輝かしい。よく頑張ったわね。
周囲から光が消えていく。
「麻莉や」という声が聞こえた。もう顔が見えない。
「さようなら、寧寧……」
遠くから祈りの歌声が聞こえてきた。
(つづく)
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