寧寧、わたしを妻へと望まれても

 


 以前、父の執務室だった部屋に向かった。現在は王寧寧わんにーにーが使っているようだ。

 王公苑わんごんゆぇんは確かに王位は息子に譲り、自分は摂政せっせいとして権力をふるう計画なのだろう。賢い男だ。


 執務室に入ると、すぐに王公苑が何か言おうとしたが、声が裏返っていた。


「麻莉王女、あれィ」


 さすがの叔父も、先ほど目にしたものが、理解できないのだろう。幽霊にでも出くわしたかのようだ。それも、あながち間違いではない。


 彼に衝撃が残り、動揺している間が、わたしに残された時間だろう。


「あ、あれは何なのだ」と、王公苑わんごんゆぇんが言い直した。

「何ではないのです、叔父さま。あの方は……、いえ、あれは青飛龍せいふぇいろん王子に憑依ひょういした者がいたのです」


 天界のことを話しても無駄だろう。たとえ、大理石の長卓を割られたとしても。彼は根っから即物的な人間だ。だから有能だろうが、信じたいものだけを信じる頑固者でもある。

 夢見がちという言葉ほど、王公苑わんごんゆぇんから遠いものはない。


「憑依した者とは?」


 深く考えないで欲しいものだ。適当に言いつくろいたいのに、それを許さないつもりだろうか。


「本物の青飛龍王子に今は戻っています。彼には、この間の記憶がないはずですから。うまく言いくるめてアロール王府に送り返してください。それは、叔父さまには得意なことでしょう。何かに呪われていたとか、適当な呪符でも用意してください。わが国に来てらしたから、お祓いしたとか、なんとかと」

「そうだな。アロール王府に戻って、殺されかけたと訴えられては、面倒になる。……内官」

「ここに控えております」

「今の話を聞いたか。王子の意識が戻っても何も言うな。わしから説明する。それから、アロールの儀仗兵たちは別宅に案内して、丁重にもてなしておけ」


 内官はすり足で消えた。


「叔父さま、では、わたしの望みを申します。わたしは、すぐに父とともに王宮を出ますが、腹違いの弟は頼みたいのです。将来、王家を継ぐ者がいない場合には、彼に。そうでなければ、相応の待遇をしてやってください」

「よかろう。それで、王女。あなたはどこへ行くつもりか、話しあう必要があるな」

「わたしは貧民街に住む民たちの世話をします」


 王公苑わんごんゆぇんの声が再び、「へぇぇ」と奇妙に高く裏返った。


 寧寧にーにーも絶句したようだ。あまりに素っ頓狂とんきょうな表情を浮かべるので、笑い出したくなった。


「馬鹿な」と、黙っていた寧寧が呆れた。

「本気ではなかろう。あなたのような育ち方をした者が、そのような貧しい民とともに生活するなど」

「いいえ、本気です。わからないでしょうけどね。でも、これには意図があるんです。わたしを待っている者がいます。その人のため死に物狂いで努力しても、その人が受けた苦痛を考えれば、これは容易いことなんです」

「言うておることがわからん。贅沢ぜいたくな生活も尊い地位も、すべて捨てるというのか」

「そうです。これまで恵まれた生活をして、この国のことを全く知らなかった。飢え、乾き、病気に苦しむ多くの民がいるのです。彼らは明日への希望さえもない。そんな者たちのために、私財を売って居場所を作るつもりです」

「……」

「父は王として無能でした。民の生活を見て、叔父さまのなされたことを理解はしています。許すことはできませんが」


 王公苑わんごんゆぇんは頭をふった。


「良い治世を行う名君になってください。わたしは、その姿を民とともに見ています」

「麻莉王女」と、寧寧は額にシワを寄せた。

「わたしは、あなたのためなら、なんでも差し上げたい。これは真心からの思いなのだ。どんな贅沢な生活も思いのままだ。わたしの妻になりなさい。王妃として、民に尽くせば良いであろう」

「それでは、足りないのです」と言ってから、「天の門をくぐりたいのです」と、小声で呟いた。


 この利己的な目的のために、わたしがすることを天は受け入れてくれるだろうか。

 神仙への道は自ら切り開かなくてはいけない。リュウセイが助けることはできないのだ。それを知っているからこそ、文句も言わずに彼は天に帰った。


 きっと、内心では怒ったことだろう。

 彼という男は、自分が支配できない状況には我慢がならないはずだから。


 だから、短刀で問答無用に刺した。わたしは、たぶん、あの人に甘えている。


「これでわたしの話は終わりです。父に医官をつけてください」

「それだけで良いのか」

「ええ、準備ができたら、父を迎えにきます。それほど、長くは待たせません。それまで頼みます。戴冠式だけはでますから、それで、あなた方の面目は保てると思います」


 現実家の王公苑わんごんゆぇんは半信半疑だったろう。


 だからといって、これ以上、説明することもない。

 

 王宮を出てすぐ、わたしは都の外れ、母がもっていた広大な土地と屋敷を、貧民に解放するための準備をはじめた。


 美麗な服も、宝石も、すべてを金に変え、風呂敷一枚で足る身の周りのもの以外、すべてを売り払った。

 もう昔のわたしとは違う。

 商人との駆け引きも我ながらうまくなったと思う。


「王女さま。ヒヨリでございます」


 ある日、わたしの元に女が訪ねてきた。彼女は浜木の下で働いていた侍女だった。

 数名の元侍女が、わたしの元に来た。


「王宮での仕事を紹介してもいいのよ」

「王女さま」

「王女では、もうないの。麻莉よ。そう呼びなさい」

「そんな滅相もない」


 最初はオロオロしていたヒヨリも、日が経つうちに麻莉さまと呼ぶようになった。

 そんな仲間が増えていった。


 最初は病人を受け入れ、彼らのために生活できる場所を提供した。その後、彼らの自立のための更正施設も作った。


 こころざしのある医官を雇い、教育者を選び、人びとのための衣食住を調達する。

 そのために資金はいくらでも必要だった。数年で財産を食い潰したが、その頃には救った者たちが、なぜかわたしの背後にいてくれた。


 わたしのたったひとりの友、珠花じゅふぁも最初は呆れていた。すぐ飽きるだろうと笑っていたが、わたしを手伝うようになった。


「いいこと、この美しいわたしに食事を与えてもらえるなんて、光栄に思いなさい」と、彼女は患者たちに怒鳴る。


「ええい、汚らしい。少しは身体を洗って。虫がたかっているじゃない」


 そんな文句ばかりを言いながらも、現実的な彼女は、とてもよい共同経営者になっていた。

 そうそう、リュウセイがつけてくれた金砥じんでいも役に立った。危険が多い場所だから、彼の助けがなければ、わたしの命はもっと短いものになっただろう。



 いろいろなことがあった。

 過ぎてみれば、みな思い出だ。

 リュウセイと過ごした数ヶ月と、その後の年月はあまりにかけ離れたものになった。

 

 珠花じゅふぁもわたしを気まぐれに手伝いながら、彼女らしく生き、わたしよりかなり先に逝ってしまった。

 最後の瞬間、彼女はわたしに告白した。


「わたしのかわいい麻莉。この世で唯一愛した人なのよ、知っていた?」

「ええ、知っていたわよ、珠花じゅふぁ

「悪い子ね」

「あなたも」


 それが最後の言葉だった。


 王寧寧わんにーにー、父のこと、生きていく上でいろいろな人々がわたしの前に現れたり去ったりした。


 そして、今、わたしのささやかな一生を閉じる日が来た。

 わたしは六十五歳になっていた。

 この世界では長寿のほうだ。


 肌は衰え、あの頃のような元気ももうない。

 リュウセイとともに生きた数倍の年月を彼なしで過ごしながら、わたしの心は終生、彼とともにいた。


「そうでしょう、リュウセイ」という自分の声がしゃがれて聞こえる。

「聖母さま、なんとおっしゃっているのですか?」


 忠実なサヨリが、わたしの寝床にひざまずいていた。


「なんでもないわ、サヨリ。そろそろわたしの時間が終わるようですよ」


 彼女は泣いていた。

 わら敷きの粗末な寝床に、多くの顔が見える。

 彼らはみな、わたしが助けた者や働いてくれる者たちだ。

 みな、一様に涙を浮かべている。


「ああ、バカな子たちね。わたしには待っている人がいるのですよ。泣かなくても良いの、ずっと、ただ、この日を待っていたのですからね」


 ああ、わたしの声は、なんとゆっくりとしか話せないのだろう。話すとかわいた咳がでる。身体が乾いてしまったのだろう。


「聖母さま、わたしたちを見捨てないでください」

「悪いわね。わたしは聖母でもなんでもないのですよ。だから、ここに、あなたたちを残して行くわ」


 その時、外部から騒がしい音がした。


「王さまの御なり!」という声が聞こえる。


 愚かな王寧寧わんにーにー王。また、ここに来たのね。でも、わたしは、もう待てないのよ。


 あなたは、最後まで結局、わたしを見捨てることをしなかったわね。いつも影から支えてくれた。だから感謝してるわ。あなたの治世はとても輝かしい。よく頑張ったわね。


 周囲から光が消えていく。


「麻莉や」という声が聞こえた。もう顔が見えない。

「さようなら、寧寧……」


 遠くから祈りの歌声が聞こえてきた。


(つづく)

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