彼に会いたい
わたしが育ったのは江湖という土地で、豊かな自然にあふれていた。
湖の近く、なだらかに広がる緑の平原をすぐ思い浮かべることができる。
聞こえてくる風のささやき、透明感のある空、日常の美しい営み。
故郷を離れてから、はじめて知る美しさ。
なぜ、この時に、ふるさとを思うのだろう。
これから始める馬鹿げた計画は行き当たりばったりで、それも、たぶん冷静に考えれば計画というほどのものでもない。
だから、怖いのだろうか?
だから、江湖の自然が懐かしいのだろうか。
彼の父は野心的な男で有名だ。最近の朝廷でのふるまいは、さらに露骨だと聞く。
そんなこと、すべてがどうでも良かった。ただ、リュウセイに会いたかった。
「ね、浜木、恋をしたことがある?」
「まあまあまあ、お姫さま、こんなお婆さんに聞かないでくださいましな」
「恋をするって、どういうことかわからないの。例えば、どんな感情だと恋なの?」
「そうですね。その方のことばかりを考えてしまうとか……。目の前にその方がいるときではなく、いない時に考えていれば、それは恋をしているのでしょう」
「恋の経験がないなんて、ほんとは嘘でしょ?」
浜木をからかうしかない。
なぜなら、言うとおりだから。たぶん、わたしは恋をしてる。
「浜木に、そういうお相手はいたの?」
浜木は何も答えず、「お茶でも入れましょう」と、言った。
生まれた時から、わたしの世話をしてきた浜木。世界で自分ほど窮屈な思いをする者はいないと思ってきた。
しかし、浜木はどうだろう。
女官として働く彼女に自由はない。まわりの男といえば宦官しかいない。十八年の間、彼女はわたしに尽くすことで生きている。
それは息苦しくないのだろうか。
わたしは浜木に
「お姫さま、この前は無断で馬を使いましたね。そのようなこと、もう二度となさらないでくださいませ」
「大丈夫よ、牛車で行くから」
「わたしも同行いたします」
「う〜〜ん、浜木、お願い。お願いなの」と、言ってから、これではダメだと気づいた。
浜木は決意に満ちた顔をしている。こういう時はテコでも考えを曲げない。
「あのね、先ほど
「まあまあまあ、お姫さま。なんということ。それはそれは、浜木は嬉しゅうございます。まあまあ」
浜木の顔が幸せそうにほころんだ。
ごめんね、浜木。わたしは何を望んでいるか、知ってしまった。だから、平然と嘘をつく。
自分のなかに生まれた、この
「だからね、数日、珠花の屋敷で最後の時間を過ごすわ。もし、彼と結婚すれば、わたしの立場は公になり、簡単に出歩くことも、珠花に会うこともできなくなるでしょ」
「まあ、お姫さま。そうですわね」
胸の奥で浜木に謝った。わたしの失うものは、なんだろうか。
たった一度だけでいい。彼とともに過ごしたい。そうすれば、きっと、自分の義務に従うことができる。
もう時間がない……。
父は
まだ幼い弟に王権を譲るためには、
ただ今は、そんなことは、どうでもいい。
結婚相手が誰だろうと、それが一介の楽士でないことだけは間違いないのだから。
わたしは
「数日、ここに滞在します。迎えは必要ありません」と、従者に伝えて牛車を返した。
彼らは、わたしの言葉を容易に信じる。浜木も御者も従者も疑いもしない。
品行方正で従順な麻莉。それがわたし……。わたしは大人になるしかない。それもずるい大人に。
いつものように楽しそうに珠花は、わたしを迎え、リュウセイに会いたいと言うと驚いた顔を見せた。
「なんてことかしら、麻莉。狂ったの。いったい、どうしちゃったの」
唇を噛みしめた。
「あの、わたし」
「ごめん、それ以上、何も言わないで。聞きたくないわ。聞くと恐ろしいことになりそうよ」
「珠花」
「ねえ、わたしはあなたが大好き。美しくて素直で純粋な。だから、あの男だけはやめなさい。本当の愛なんて知らないほうがいいのよ。汚れてしまう。わたしの大好きな麻莉が」
「お願い。この宝石を見て、これでリュウセイを呼んで欲しいの」
彼女は卓の上に置いてある
使用人が入ってきた。
「お嬢さま。御用でしょうか」
「トンを呼んで」
「お待ちくださいませ」
使用人が出て行くと、珠花はわたしを見てから大きくため息をついた。
「きっと、わたしは後悔するわよね」
「珠花」
「世界でたった一人だけよ。わたしを弱いと感じさせるのは、あなただけ」
珠花はいつもわたしのために動いてくれる。そう、わたしは少しだけ気づいていた。珠花は男を愛せない。
狡猾でずるさを覚えたわたしは、そんな彼女を利用しようとしている。心の痛みを抑えながら、リュウセイに会うため悪魔になろうとしている。
「失礼します」
開き戸が開き、がっちりした体格の年配の男が入ってきた。
「トン」
「はい、お嬢さま」
「お前ならわかるでしょ。この宝石のことだけど。売ればいくら?」
「お見せください」
トンと呼ばれた男は、うやうやしく右手で宝石を受け取った。そのまま詳細に観察してから、懐から珍しい道具を取り出して、石に当てた。
「これは、間違いなく本物で、希少なものですな」
「売ればいくら」
「まあ、五十金貨ってとこでしょうか。交渉すれば、もっといけるでしょうが、お急ぎなら」
「急ぎよ」
「では、お待ちください」
男が出て行こうとすると、
「他にもなにか」
「もう、ほんと後悔するにちがいないわ……。あなたに頼みたいことは、もっと別にあるのよ。それも秘密裏に。表沙汰になったら後が怖いことよ。あなたやわたしの首が飛ぶかも」
「お嬢さま。あなたさまのお役に立てることなら、いかようにも、このトンめにお命じくださいませ」
「また、ムチで打たれたいの?」
ごつい身体に似合わない、とろけるような目で珠花を見つめた男は、頭を深く下げた。
「楽曲職人閣にいる男。それも最高級の楽士を至急で呼びたいの、どのくらい入り用? その宝石で買える?」
「おそらく、可能かと」
「そう、リュウセイという男よ。呼んできてちょうだい。それも我が家が関わったことは、絶対知られないように。できる?」
「承知いたしました」
トンは、一歩一歩、あとずさるように部屋を出ようとした。
「トン」
「はい、お嬢さま」
「秘密裏にね」
「わかっております。お任せください」
トンは出て行った。
(つづく)
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