誰を好きになろうが、その問題は些細なこと



 絹布でダブダブに作られた座布団ざぶとん。身体が横にはずんだとき、彼は月琴を守るように手で押さえた。

 彼が私を見つめている。


 もう無理よ。彫像のような美しい顔が、触れそうなところにあるなんて。


 思わず転び、キャッと叫んで床で背をうってしまった。ほんと恥ずかしい。

 

 リュウセイといえば、ただ眉をあげ助けることもせず、ぷっと吹き出した。


「すみません」と弁解しながら、わたしの手を取り助け起してくれた。

「もう時間がきたようです。今日は、とても楽しかった」

「え、帰られるの?」

「申し訳ないのですが、今日の予定があります」


 え? もう。まだ何も話していないのに。あまりに、あっけなくて、いったい自分がなにをしたのかも理解できない。


 ただ、彼が優雅に珠花じゅふぁに挨拶して去った時、身を切られるような痛みを覚えた。心臓に細長い剣で穴をあけたような痛み。

 

 なぜだろう?

 心が、なぜキリキリと痛むのだろう?


 それからのことを、どう説明していいのだろう。

 わたしは理性的ではなかったし、常識的でもない、むしろ衝動的だった。思えば最初の出会いから、リュウセイに関することは理性的だった事なんて一度もない。




 翌日。

 王寧寧わんにーにーの訪問を後ろめたい思いで受け入れた。


 多くの求婚者たちの訪問を断った理由は体調だったけど。王寧寧わんにーにーだけは難しい。


 彼の父は朝廷において大きな影響力を持つ。だから、疲れを理由に全ての貴公子を断ってもよいが、王寧寧わんにーにーだけは別だ。

 彼を追い返せせるほど、王家に力がない。


「いいわ、お通しして」


 会うのはうたげ以来だから、まだ、五日しか経っていない。しかし、なんて昔に感じるのだろう。


 開き戸にむかって、「どうぞ」と答えた。

 部屋に入ってきた王寧寧わんにーにーは、洗練された物腰で膝を折ると、両手を重ね軽く頭を下げた。御簾みす越しに、すわるのが見える。


「麻莉王女。突然の訪問、お許しいただきたい。ところで、お出かけの予定でしたか?」

「わたくしが?」

「そのようにお見受けする」

「ええ、ちょっと、用がございまして」

「どちらかと、お聞きしては無粋でしょうな」と、まるで何もかも知っているという顔付きでニヤリと笑う。


 わたしは慌てた。それから、もごもごと取り留めのないことを言ったが、それは意味不明な言葉で自分でも失敗だと思った。王寧寧わんにーにーはリュウセイとは違う方法で平常心を砕いてくる。


 浜木が茶と茶菓子をもって部屋に入り、卓上に置くと数歩下がって背後に控えた。


「麻莉王女。ふたりだけでお話しするほうがよろしいかと」

「浜木なら、お気になさらないでください。ずっとわたしを育ててくれた信頼できる者です」

「そうですか。では、ここで申し上げてもよろしいのでしょう」

「どうぞ」

「楽士のことですが」

「浜木!」

「はい」

「席を外してちょうだい」


 浜木は不服そうではあったが、部屋から出て開き戸の外で控えた。


「浜木。開き戸を閉めて」

「お姫さま。まだ結婚前で、殿方とおふたりというのは」

「浜木」


 浜木が開き戸を閉めた。振り返ると、王寧寧わんにーにーが楽しそうに笑っている。この男は人が悪い。


「さあ、人払いはしました。どういうことでしょうか」

「あの侍女は面白い。まるで母親のようですね」

「小さい頃から、母親代わりでしたから」

「そういう人でも、楽士という言葉を聞かせたくないようだ」

「おからかいにならないでください」

「おや、困らせましたか。王女」

「それで、ご用件というのは?」


 彼はじらすように湯飲みを取り、茶を口にふくんだ。


「さて、これは嫌な役回りですが。まあ、わたしの人生は常に嫌な役回りがついてまわるようだ」

「……」

「単刀直入に申し上げよう。わたしは王さまと我が国の防衛について意見が一致しています。現在、この国とアロール王府との関係に修繕すべき問題が生じて……、こういう話は退屈でしょうか」

「いえ、それぞれの国の立場は講師から習っております。興味深く拝聴しております」

「つまり、妻としての教育は行き届いていらっしゃる」


 肩をすくめた。小さい頃から王妃あるいは州侯妃となる未来を定められ、そのための教育は完璧だったと思う。それを疑問に思うことさえなかった。


「求婚しましょうか?」

「それと、楽士がどう関係がございますの?」

「そういう事です。おわかりですか?」

「わかりません」

「わたしたちの結婚の話をしています。ですが、あなたはあの歌い手のことしか頭にないようだ」


 うろたえた。今、求婚されようとしているのだ。たとえ形式的なものであったにしても、これは決まったも同然の道筋なのだ。


 王寧寧わんにーにーは結婚に感情を持ち込まない。この男は野心がある。大人で自分の立場と役割を心得ている。わたしとは違い、いや、以前のわたしなら、彼を夫とすることに疑問を感じなかっただろう。


「いいでしょうか、王女。我が国は小国であり、他国から常に狙われている。内通者ないつうしゃが常に身近にいると思ってください」


 思わず、ビクッとした。どれくらい、彼は知っているのだろうか。

 虚勢を張りたいけど、そんな自分がとても滑稽で、まるで道化師みたいだとも思う。


 ああもう、王寧寧わんにーにーがなに!

 結婚がなんなの!


 父だろうが、王族だろうが、わたしの恋を邪魔する権利が、なぜあると思うのだろう。

 この男に「あなたなんて、好きじゃない」と、かんしゃくを起こしたい。


 彼は笑うだろうか。怒るだろうか。

 結婚に恋愛は必要ない。むしろ邪魔なだけ。それは、彼だけの考えでもない。同じ階級の人間なら、みな同様の社会常識を持っている。


 珠花じゅふぁなら言うだろう。『麻莉、結婚に愛情などを持ち込むと、ややこしくなるわよ』と。


 恋とか愛とか、珠花なら『罰遊び』だと名付ける。何人の男を夢中にできるか、彼女の愛とはそういうものだった。わたしがリュウセイに感じる、この渇望に似た不可解な感情を、けっして理解しない。


「ご心配には及びません。あなたが誰を好きになろうが、その問題は些細なことです」

「王寧寧さま」

「わたしはあなたのことを好もしく思っています。ですから、正直に申し上げておきましょう。あなたの立場での結婚は政治問題です。そこに個人的な感情が必要ないことを、ご存知のはずだ。というよりも、正直に言えば、わたしが感情を入れているのです」


 もしも、あの日。街でリュウセイの声を聞かなければ、彼に会うことがなければ、父の望む相手と結婚することに疑問さえも感じなかった。そう育ってきたのだ。自分の義務は心得ている。


「あ、あの、何のことですか」

「そうですね。あなたが惜しいと思っているのです」

「わかりません」と、声が小さくなったのが恥ずかしい。


 王寧寧わんにーにーは唇を歪ませて笑った。


「さて、今は、こう申し上げる。結婚の申し込みをお受けなさい。そして、同じ王族として義務を果たしてもらいたい」


 嫌だと、心が泣き笑う。


 リュウセイと会わなければ。

 だけど、リュウセイと心のなかで呼ぶだけで、震えるような渇きを覚えてしまう。


「麻莉王女、返答は聞きません。あなたは若い。ただ、わたしをいつか頼ることになるでしょう」

「どういう意味でしょうか」

「いずれ、わかります。では、王女、またお会いしましょう」


 そうほほえむと従者を呼び、上着を翻して帰っていった。


(つづく)

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