旅籠でふたりの夜
わたしは天界と人間界で辛いことが多かった。そんな経験をすると臆病になってしまう。また痛い目にあいそうで、一歩前に進むのが怖い。
なんて気弱な女になってしまったのだろう。これが本当のわたしだと思うと情けない。イヤになるけど……。
父を助けたいという思いは、封印された魔王を復活させたときと同じかもしれない。なんてこと考えている。
これは天命なのって。
天界と地上界で、同じあやまちを繰り返しそうだ。それが運命だとしたら、天命にちがいない。
安易だけど、わたしは逃げたくなる。
今日は彼とともに都の街を歩いた。庶民の生活は活気にあふれ、考えていたより、彼らはずぶとい。
商店は騒々しく、人びとは笑ったり、泣いたり、疲れていたり。
押し売りがいると思えば、優しい店主もいる。
花街では着飾った女たちが声をかけてくる。
「お兄さんたち、遊ばない」と、匂いのきつい女たちが笑みを浮かべる。
「い、いえ、僕は」
「あら、かわいい坊や」
リュウセイは面白そうにわたしの反応を見ている。まったく、こういう時の彼の態度は、なんていうか、とても腹立たしい。
女たちの媚びにもむっとしてしまう。
一日中、ずっと歩き続けたので、思っていたより疲れた。ふくらはぎも痛んで、硬くなるしで。それで、夕暮れ近く早めに宿を取った。
店先に赤いちょうちんがぶら下がり『宿:魏坊』と書いてある。
ノレンをくぐり部屋を頼むと、店主は愛想よく応じた。
「お出でなさいまし」
「部屋はあるか」
「へえ、昨今は物騒でしてな。空いてる部屋は多いですよ。王宮が安定しないことには、商売もあがったりでさ。お部屋は二つで、それとも、一つで」
「一部屋を」
「お二つでもよかったのに」
案内された部屋は二階で二間続きになっていた。
部屋でくつろぐと、リュウセイが額にシワを寄せて、魅惑的な視線を送ってくる。無意識に魅を放つ彼は、確かに天界の上神だ。
「父親を助けたいか?」と、彼が聞いた。
「救いたいけど。でも」
「父王の評判を聞いて
彼はおおらかに笑った。
リュウセイは
「報告せよ」
「は、殿下。ランワン王府内に目立つ動きはありません。王に近い
「変わらんようだな」
「殿下、くれぐれもご用心ください。
「ああ、わかっている。準備はできたか」
「一両日中には」
「行け」
黒装束の男が去ると、リュウセイは穏やかな表情になった。
「あなたは、こうして情報を集めているの」
「世界を制するには情報だよ、姫。天界だろうが、人間界だろうが。いや、天界や魔界はもっと単純だ。人間界のほうが、よほどゴタゴタしているようだな。人間は欲望に忠実で厄介だ」
彼はほほ笑んでいた。なぜか嬉しそうに口もとが緩んでいる。
「嬉しそうなのは、なぜなの?」
「いつも、おまえがそこにいる」
こんなリュウセイを見ると、つい感動してしまう。照れるかわりに、目をくるりと回転させて、わたしは、わざと話題を変えた。
「この街でもっとも貧しい人々の生活を知りたいの」
「それはいい選択だ。この国はアロール王府に比べて貧しい。一部の豪商や貴族などの金持ちと、普通の庶民との差は開くばかりだ。朝廷が無策のために、その差が大きくなっている。これは貴族社会にいてはわからないことだ」
「リュウセイ」
「なんだい」
「ときどき、あなたを理解することが難しいの」
リュウセイは黙った。
欄干にもたれ、視線をはずした。
彼の傍にすわり、膝に頭を乗せると、優しく髪をなぜてくれる。大きな手がわたしの頭を包む。それだけで世界は何事もなく、満たされたものに変化する。
「今日も月がでているな」と、彼が呟いた。
「なにも考えてないのね」
「そうかな」
「ええ、あなたは言葉に詰まると、いつも月が出ているって言うもの」
「そうか、しかし、それは夜しか使えんな」
彼の口もとには、あるかないかの、ごくわずかな笑みが浮かんでいる。
何を考えているのだろう。彼がわからなくなる瞬間だ。
翌日、わたしたちは貧民街に向かった。
貧民街の入り口。そこは、以前、わたしが暴漢に襲われた場所だ。彼が契約していた『音曲職人閣』も近くに店をかまえている。
「そういえば、おまえは俺のことで、妙な勘違いをしていたな」
「そこは覚えてなくていいところだ」と、わたしは男の低い声音を使った。
「男娼とでも思ったか、大胆な姫」
「世間知らずだったの」
「おっと、女のような声になっているぞ。気をつけろ」
『音曲職人閣』を過ぎて、奥の細い道に入ると、さらに荒れた雰囲気になる。
空気が変わった。
食い
得体の知れない腐ったような匂いが鼻をつく。血と病の匂いかもしれない。
どの家も崩れており、廃墟のようだが、人は住んでいた。
なぜか、彼らは襲ってこない。
「お恵みを、どうかお恵みを」
年を取った老婆がすがりついてくる。
リュウセイがにらむと、はっとして、彼女は去った。
「どうして、急に消えたの?」
「あれは、老婆のふりをしているが、実は若い。ああやってカモを探しているだけだ」
「若いなら、なぜ、彼女はまっとうに働かないの?」
「働かないのではない。働く場所がないのだ。そして、ここで生まれた人は、あるいは、地方から都に入ったものは、働くための免符を持たない。日雇い仕事を得ることができるやつは幸運なほうだ」
「なぜ、王は……」
思わず、言葉が出て気づいた。
王は知らないのだ。
王宮にとどまり、上訴文を読むだけで
「地方はさらに危機的だよ、マリィー。
「では、彼はなにもかも知っていて」
「そういうことになるな。どう考える。
「悪いわ。ただ、それを見て見ぬ振りをした官人も、そのほかも。なにより悪いのは……」
そう考えて言葉につまった。
王が悪いと思わず、口にしようとしたからだ。
道の途中で、わたしは立ち止まった。
これは迷い道だ。答えなどどこにもない。
(つづく)
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