第2部最終話 待ちわびて



 リュウセイをただ待つ間、わたしは普通の生活を覚えようと思って、井戸で水汲みをした。

 

 井戸に来ると、使用人の男がぬかずいている。

 日頃、彼は目に触れないように世話をしてくれた。たぶん、リュウセイが命じたのだろう。


「井戸水でございますか? わたくしが致します」と、彼は言った。

「いいの、身体を動かしていたほうが楽なのよ。ひとりでやらせてください」

「わかりました」


 彼はすぐに視界から消えた。


 屋敷の裏側にある井戸は、滑車のついたおけで水を汲む単純な仕組みだ。簡単だと思ったが、やりはじめてすぐに自分の愚かさに気づいた。


 桶は、すっごい勢いで滑車が回って落ちていき、手を擦りむくわ。その上、桶の水をかぶるわ。


 何度も失敗もした。それでも夢中になって繰り返した。


 引いて、引いて、引いて。

 バケツがあがった瞬間、ほっとして手を離してしまった。井戸の奥底でバシャンと音がする。


 こんなふうで、風呂桶と大きな水瓶みずがめがいっぱいになる頃には、日がかげり、わたしの簡易的な上衣下裳じょういかいそうは水浸しになっていた。


 リュウセイは太陽が隠れる直前、月が空に現れるころに戻ってきた。

 彼の姿を森の外れで見た瞬間、喜びで心が高なった。


蒼龍そうろん!」


 無意識にわたしは彼の天界での名前を呼んだ。


 あの頃、わたしたちは魔界と天界の間、俗界にある洞窟で人目を忍んで会っていた。

 玉帝の第三皇子である彼は天界の武神でもあり、さまざまな仕事があった。その隙間で会うことに、わたしは罪悪感を覚えながら、止めることができなかった。


「マリィー」と、彼の顔に笑顔が浮かぶ。


 昔、彼はわたしをマリィーと愛称で、よく呼んだ。

 例の冷たい表情が、やわらかく変化する。その瞬間が好きだった。


 彼はあまり話す人ではない。表情はいつも変わらず、喜怒哀楽も少ない。感情がないのかと疑うことさえあるが、つねに穏やかで、ありえないほど優しい。だから、時々、その優しさが悲しくなったものだ。


 わたしは桶を投げ捨てて、走った。

 彼が帰ってきた!


 ずぶ濡れのわたしの身体を避けながら、彼は楽しそうに笑った。


「どうやったら、そこまで濡れることができる」

「え?」

「透けて見えるぞ」


 彼の視線が意味ありげに胸におりて止まった。


 その視線で自分の姿を見た。

 びしょ濡れになった布の下で、くっきりと乳首の形があらわになっている。


「あっ」

「その姿で待っていたのか」

「いえ、違う。あの、あの、こ、これは違うから!」


 手で胸を隠して必死に弁解した。彼が冷静な表情を浮かべているから、よけいに恥ずかしい。


「まったく、困った奴だ。風邪を引くぞ。今日は、それほど暑い日でもない。人間の身体はもろいものだ」


 彼は笑いを含んだ声で、私が走ってくる途中で投げ捨てた桶を見た。


「あの、気づかなくて」

「そうか」と、唇の端を上げてほほ笑む。


 その目つき。ああ、彼が好きだけど、でも、とても恥ずかしい。


 私は、数歩、後退した。


 緑の丘を涼やかな風が通り過ぎていく。

 雑草の間にはところどころに岩がのぞいている。わたしは慌てていたので、だから、当然のように背後にあった大きめの岩につまずき、バランスを崩した。


「あ!」


 転ぶ、そう思った瞬間、彼がすかさず腕を伸ばした。わたしは彼の胸に抱えこまれ、そのままいっしょに地面に倒れた。地面は下草があって柔らかく、彼が身体を支えてくれたので問題はなかったけど。


 リュウセイは横になったまま、わたしを腕に抱き、雑草の間に挟まる。


「痛いところはないか」

「大丈夫」

「相変わらずそそっかしいな」

「変わったわ、たぶん……。ほんの少しだけど」

「……ああ、お互いにな。ほら、そのまま空を見あげてごらん」と、彼が天を指でさした。

「空?」

「太陽と月が同時に天にあって、不思議な光景だと思わないか? 神仙の嫦娥じょうがが月を操っている姿を思うと、これは面白い」

「あなたは天界に戻るの?」


 リュウセイは横になると、片手で頭を支えて私を見てほほ笑んだ。泣きたくなるほど優しい顔で私を見て、「さあ、服を脱いで」と呟いた。


「ここで?」

「ああ、ここで。そんな水浸しじゃあ、身体が冷えてしまう」


 きっと、真っ赤になったにちがいない。彼は楽しそうに私の胸に触れると、束帯を外しはじめた。


「だめ!」と、思わずその手をおさえた。

「そうか。じゃあ、今日はご褒美なしだね」

「いえ、それは。あの」

「どっち?」


 私は、抑えていた手をそっと外した。

 勝ち誇ったように、彼の手が私に触れ、「硬くならないで」と、耳元でささやく。


 半分、胸があらわになった、その瞬間だった。


 ポンポンポンと、私たちの周囲で弾ける音がして、雑草の間からタネが飛び出し花びらになり、クルクル開きながら空に舞った。


 その奇跡は周囲で一斉におきた。

 薄桃色や白く淡い花びらは、空も雑草も全てを隠してのぼっていく。見渡す限り幻想的な色に染めあげていく。


 私は、しどけない姿のまま、その美しさに息をのんで言葉を失った。


「これは」と、彼が感嘆した。

琴金環こときんかんの花……。季節の変わり目にタネが弾けて花びらになって、そして、秋になる。この土地特有のものだが、俺もはじめて見た」

琴金環こときんかん

「不思議な植物だ。こうして、一斉に花びらに似たタネが舞う。これほど多く美しいものは珍しいかもしないが」

「まるで『花の祭典』の、花びらの中にいるようね」

「あの日。はじめて出会ったな」


 彼は仰向けになると私の肩を抱いた。


「忘れられない経験だった。父に頼まれて、しかたなく剣舞を演じたとき、天界の涯にぶら下がる、とても美しく無邪気な少女を見つけた」


 私たちは花の幻想的な舞いのなかにいた。

 彼が身体を起こして、優しくキスをする。


「わたし、あの」

「なんだい」

「とても……幸せだわ……」


 彼が私を強く抱きしめ、「そうか」と耳元でささやいて、耳たぶを噛んだ。それは気の遠くなるほどの快感を与えた。


(つづく)

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