現世でも、わたしの男。
「あなたなのね」
目覚めたとき、思わず出た言葉がこれだった。
──あなたなのね? どういう意味でわたしは言ったのだろう。混乱してしまう。
わたしは一階の床間で
「気がついたか? どこか痛いところはあるか」
心配そうなリュウセイの様子。その顔はいかにも不安そうで気遣いに溢れている。わたしは指を伸ばして彼のほほに触れそうな、ほんの手前で止めた。
天界とか、魔族とか。夢を見たのだろうか……。
「わたしたちの間には、いろいろなことがあったのかもしれない。そんな不思議な夢を見ていたの」
「どういう夢だ」
「夢のなかに、あなたがいた。
リュウセイは奇妙な表情を浮かべていた、喜びと同時に不安そうな。それは日頃の自信にあふれた彼とはあまりに隔絶している。
「あなたは、誰なの? 楽士? それとも、アロール王府の第三王子、
「でも」
「不思議なほど懐かしかった。わたしは魔界の姫で、天界の第三皇子と出会うのよ。あなたそっくりの、でももう少し傲慢な感じだったけど」
「俺が傲慢か? 困ったな、いや、そうではない。思い出したのか」
「思い出したって……?」
「天界でのことだよ。麻莉」
「あれは、夢ではないの?」
「夢ではない。俺は、ずっと探していた。この人間界で、どれほど探していたか。何年も、何十年も、放浪しながら探し続けた」
「あなたは、人間ではないの?」
「
天界の神である
なぜ、そんなことを知っているんだろう。
「わたしに何があったの?」
「最後を覚えていないのか」
「なにも」
「そうか。でも思い出す必要はない、愛しいマリーア。
彼の表情は愛おしさに満ちていた。そう、この目を、よく知っている。いたわりに満ち愛情にあふれた、わたしを見る彼の目線。
指を伸ばした。
彼の目もとが濡れている。
これほど愛おしい人を、これまで忘れることができたなんて。
「やっと、あなたを見つけたのね」
「そうだ、俺たちはやっと出会えた。しかし、今はすまない。配下からの報告がなければ、ずっと、ここにいたいのだが」
「出かけるの?」
「ああ、これは片付けておかねばならない。アロール王府での責任があって」
リュウセイはにっこりとほほ笑むと、わたしの髪を撫で、それから、額にやさしく口づけをした。
ああ、この感覚。
覚えている。彼はいつも、こんなふうにわたしの額へ口づけをしては、天界に戻って行った。『すぐに戻るよ』と、言いながら。
「ここで待っておいで、すぐに戻るよ」
「ひとりで?」
「そんな顔をしないでくれ。この屋敷に隠れておいで。いいかい、ぜったいに遠出はしないでくれ」
「ええ……」
「不安そうな顔をしてもダメだよ。本当は強いことを俺は知っているから、心配はしない」と、彼は笑顔を浮かべた。
そう伝える彼のほうが不安そうだった。
「では、おりこうさんに待っておいで」
そうして、リュウセイは去った。
彼がいる間、心臓が止まるかと思うほどドキドキした。だから、彼が出かけて、やっと息がつけた。
自分がなにをしているのか、理解できる余裕ができた。
わたしは、ひとりであることを噛みしめた。
江湖の屋敷で、大勢の使用人に囲まれていたときも、王宮にいても、常に孤独で、ここは自分の居場所じゃないと思う自分をもて余した。間違った場所にいるという気持ちが拭えなかった。
わたしはついに自分の居場所がわかった。
──リュウセイ、早く帰ってきて。でも、早く帰らないで。あなたが戻ると、わたしは息ができない。神界でもそうだった。あの人のかたわらにいると自分がなくなってしまう。
二日目になっても、彼は帰って来なかった。
その日も晴れていて、狭い屋根裏部屋の窓からは、風に葉をゆらす木々が見えた。それは美しい風景だった。
わたしは、ひとり。
小鳥が窓辺に飛んできて、窓枠をつつく。
「ねえ、わたしも空を飛びたいわ、小鳥ちゃん。そうしたら、今、彼がどこで何をしているか、空から見えるから……」
本当に彼は帰って来るのだろうか。もし、帰って来なかったら。
でも、その言葉だけは喉の奥に押し込んで、言葉にしないようにした。
浜木がよく言っていたものだ。
『悪い言葉は胸の奥にしまって消えてと念じるのです。けっして言葉にしてはいけませんよ。言葉にすれば、空気の精霊がイタズラして本当にしてしまいますからね』
だから、決して言葉にしない。
屋根裏部屋の窓を開き、リュウセイの置いていった月琴をつま弾くだけにする。出かけに彼は言っていた。
「そんな不安そうな顔をしないで」
「あ、あの、帰って来ますよね」
彼はふっとほほ笑んだ。
「おねだりかい」
「うふふ」
「それは、帰ってくるまでのお預けだ」
わたしは不安そうな顔つきをしていたにちがいない。
「この月琴を置いておくよ。必ず帰ってくる」
確かに、ここに彼の月琴が残っている。
窓辺から空を眺めながら月琴をつま弾く。
彼は、なんと歌っていたかしら。
そう、あれは、とても美しい曲だった。
思い出しながら、その音曲を鳴らした。月琴は普通のものより弦が多くて、素人には扱いづらい。彼のように弾くことなんて、決してできないだろう。
窓枠に腰をかけ、鼻歌を口ずさんだ。
空は薄曇りで雨になりそう。
遠く南の空から灰色の雲が近づいて、湿気まじりの空気がいやそうにしている。彼は、きっと帰ってくるだろう。
わたしの皇子。わたしの男。わたしの……。
(つづく)
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます