第1章 難波
第2話 父と時化
――平成六年十二月。
夜も外は寒く、私は布団に包まっていた。
ポケベルを触るが、用事がないのに鳴らすのはよろしくない。
眠ろうと思っていたから、いつ寝付いても構わなかった。
いつおやすみしても。
◇◇◇
私はルーズリーフから視線を外へと逸らした。
大学の外も窓が揺れる程、冬の風が雲が姿を変えて暴れている。
私の背中がガラスに映り込んだ。
髪は長く伸ばし、高い所で結い、そこに猫のバレッタを付けていた。
作業着は脱いで、白と薄桃のタータンチェックのセーターに黒のミニスカートを身に纏っている。
暗闇カラスの如くベルが構内へ鳴り響いた。
お昼休みは嫌な時間だから気分はよろしくない。
「ああ、かったるい。さあ、飯行こうぜ。
「
「ぎゃ!
「皆、飯だぜ。グリーンへゴー」
髪の赤い紫堂
このように、私は、
嫌々ミンナの前で、お弁当風呂敷を解く。
「やっだー。おばさん弁当」
毎回、同じことだが、揶揄したいから連れて来るのか。
もう一人暮らしをしている。
母のさくらは
後ろ指を指されても我慢しよう。
「櫻絵のカニさんウインナーいただき」
「紫堂くん、私のばい菌がうつるのよね」
いつもばい菌が入っているとお弁当が文句をつけられて来た。
特に紫堂くんに。
「そうだ、彼氏はどうしているのかよ。
愚かしい者ども、寧くんを汚さないで欲しい。
心が凍てつくように寒い。
すると、私の前に、眩しい虹が
白い和服を着たお父さんが現れる。
虹の紫色に腰掛けると、赤に背を寄せた。
『――さくらと自分が、手塩に掛けて育てた娘だ。綺麗な花を咲かせるのはもう暫し後になるかの。紫堂殿、何かあったらお仕置きするぞ』
私の箸も止まっている。
「お父さん、栃木から来てくれたの」
この寒さだ。
父に、あたたかいお茶でもお出ししよう。
しかし、もう美大は卒業した筈だけれども、何故お弁当事件を思い出しているのか。
「懐かしいお父さんに会えたから、いいか。楽しい話をしたいわ」
沢山お話しするつもりでお父さん用の益子焼に熱めのお茶を支度した。
「あのね、私にも好きな人ができたの。でも、周囲が煩くて、哀しい結果となってしまったのよ」
父は微笑んでいる。
「橘寧くんと言うのよ。もし、仲直りできたら、二人で挨拶に行こうかと思っているわ」
「櫻絵、人が人を想うとき、大切なのは、自分からはどんなことができるかだぞ」
お話は尽きない。
もっと、もっと、父との時間が欲しい。
「あのね――」
◇◇◇
ジャンジャーン、ジャンジャン、ジャンジャーン。
私は、
朝の日差しが、出窓から白と薄桃のしば桜を逆光に注ぐ。
――平成六年十二月十二日か。
「誰からの電話かしらね」
いつものミミちゃんネグリジェで辺りを探る。
「受話器は、どこでしたっけ」
お陰で目が覚めた。
「はい、生原櫻絵です」
『櫻絵や!』
「お母さん、どうしたの」
『
「お父さんが……」
遠くの海から大きな波が寄せ、私の胸が
父の再入院から十日目後、未明の架電だ。
病院のつんとした空気も伝わって来る。
『同い年なのに、あたしを置いて行く気かい。志朗さんだけ、ずるいさね』
「お父さんなら大丈夫よ。そうそう命の灯は消えるものでもないと思うわ」
私は黒電話を肩に挟んだ。
向こうで声を震わせている生原さくらも齢五十になる。
「今から向かうからね。私が着けば大丈夫だから。お母さんも気丈夫でいて」
『お前だけが頼りさね。あたしは腰砕けさ』
母もまた、荒海に溺れていた。
支えも助け舟もない。
私は唇を噛んだ。
「お父さん! まだ二十三歳の娘がいるのに、取り残さないでよ……」
頭の中は、父の想い出が駆け巡っている。
体は、無意識に、荷造りと戸締りをし、シートベルトの装着をした。
僅かの間に忙しない。
「ああ、橘寧くんに、ポケベルで一言送信しないとね」
私は、たどたどしく綴った。
『父危篤、お食事はお休みにさせてね。ごめん。 櫻絵』
ポーラスター六〇三号室から、私は掃き出されるように出る。
セダンのアクセルを踏み、
「高速のお陰でもう直ぐだわね」
宇都宮インターチェンジから間もなくだ。
いくら栃木でも雪は珍しい。
小さな礫がちくりと視界を悪戯した。
真っ先に、国立病院へ駆け付ける。
「ポケベルは切るか。寧くんの返信待ちだけれども仕方がないわ」
時刻は、面会時間の午前十時になっていた。
受付をして、面会バッチの番号札を貰う。
エレベーターで三階へ昇った。
「三一二号室の筈ではないのかしら」
がらんとして、誰もいない。
「間に合わなかったの。お母さん、お父さんはどうしたのかしら」
私の胸が、再び時化出した。
「こちらです。生原志朗様のご家族ですね」
「娘の櫻絵です」
看護師に招かれ、奥の部屋へと急ぐ。
この病院は、まるで迷宮のようだと思った。
特別な香りのする空間に入り込む。
「お父さん!」
白くなった父に母が抱きついていた。
私は言葉を失い、その後のことを覚えていない。
別れのとき位、想い出を作らせて欲しいと目を瞑った。
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