第29話 雀サブレ
「ただいま、お母さん」
「お待たせいたしました。お義母さん」
やっと居間に落ち着いた。
「新婚でのお参りはどうだったさ。旅行へ行ってもいいのさね」
群青の湯呑み茶碗が三つ、母がちょこんとお留守番させているのが嬉しい。
「僕も贅沢させられないけれども、それなりにお仕事をがんばっています。旅行はゆっくりと時間を取ってから、櫻絵さんの行きたい所へと考えております」
「あのパソコンでパチパチしたり、話し掛けたりしているのがお仕事さね」
せめてお湯を沸かす位はさせて貰った。
今は土間ではなく、湯沸かしポットを使えるので、便利になったと、母も思っているだろう。
「寧くんのお勤め先は、千代田区にある大手広告業なのよ」
「僕は、デザイナーさんとのやり取りをさせていただいております。今は、遠隔地で通信手段が変わりましたが、基本的には、仕事の内容は変わらないですね」
私は、丁寧に煎茶をお出しする。
母が寧くんに興味を持ったのか、身を乗り出した。
「大学など聞きそびれたが、どちらを出られたのさね」
母は、寧くんに話し掛けている。
思えば、彼に対して、婿さんとも寧さんとも呼んだりして来なかったな。
「櫻絵さんは、上野美術大学ですよね。僕は近くの
彼は照れ笑いしながら、私の方へ目配せをして続ける。
「メトロで出会えたのも、近所に暮らしていたのも一つあると思う。運命的だね」
私もその通りだと思い、三度は頷いた。
若かった私は、彼と出会って結婚に至るとは、思いも寄らなかった。
「長くお勉強したとは、偉い旦那様さね」
「四年制大学の後、二年で修士になりました。一年生の夏休みにフランスに短期留学し、刺激を受けて来たこともあります。費用を惜しみなく出してくれた両親には、感謝しております」
忘れていたお土産の
「あら、フランスの話は初耳だわ」
「隠していた訳ではないよ」
私は、フランス語を履修していたり、文化も勿論学んでいて、一度は訪れたいと思っていた。
「フランスかあ。モンマルトルとか、憧れるわ。ああ、芸術家の集いし丘かな」
胸の前で、手のハートを作り、左右に振っている。
私の想いを伝えたい。
「僕もいい印象を受けたよ」
「やーだー。羨ましい」
寧くんの背中を倒れる程叩いてしまった。
「やーだー。やーだー。よし、三回言ったぞ」
彼の口元が緩んでいる。
思惟している模様だ。
「大学の話ね。修士の先輩は、教室が別だったけれども、洋画科の研究室で、お茶位はご一緒したわ。卒業制作とかどうしたのかしら」
「後で、パソコンに残してあるから、見せるよ」
母が、雀サブレを急いで飲み込む。
私がお茶を差し出すと、母は流し込んだ。
咳を二、三すると、大きな笑顔を咲かせる。
「あたしも見たいさね。こちらにあるかいの」
「お義母さん。それは嬉しいです。では、見易いように印刷して来ますね」
寧くんが席を立った。
母の歯は、幼い頃乳歯を抜かれて隙間があったことを思い出した。
「ごめんね。雀サブレ食べ難くないかしら」
「小さくて食べやすいよ」
適度な大きさなようでよかった。
間もなく、寧くんが書類を幾つか持って来てくれた。
「お待ちどおさま」
卓袱台を片付けて、卒業制作を広げた。
「私も初めて見るわ」
母と私で覗き込む。
「修士のときに、書いたものです。修士論文ですね」
私はてっきり、卒業制作ならパネルに仕上げるものだと思っていたので、驚く。
「あれ? デザインではなかったのかしら」
「僕は美術史専攻ですよ。西洋美術史チームだよ」
寧くんは、母に優しく説明してくれた。
「フレスコ画とかテンペラ画とかも描かせていただいて、その時代の検証をしたのですね。その他の時代の画材も書いてありますよ」
彼の実証したテンペラ画などは、後ろの方に、掲載されていた。
難しい話より、絵そのものに親しみがあり、私は楽しむ。
母は、懐かしそうに絵や文を眺めて、声を漏らした。
「あたしは、櫻絵の卒展があって、上野に行ったきりさね。あの絵は、新巻鮭が吊るしてあって、その晩、本当のご飯が進んだものさ」
「やーだー。寧くんの前で恥ずかしい。燦展は鯵の干物だったから、ご遠慮願ってよかったわ」
母の背中を音がする程叩いた。
咳をしてしまったので、背中を擦って謝る。
「絵はどうしたのさ」
「売れたのよ」
「勿体ないさね」
寧くんが、高らかに笑った。
「漫才みたいだね。はっはっは」
驚くことに、母も腹を抱えて笑い出した。
「あたしも寧くんって呼ぼうかね……!」
「お義母さん!」
寧くんがびっくりする。
「僕、僕も精進します」
「お堅いねえ。寧くんは」
「うわああ! お義母さんが寧くんだって。櫻絵さんが呼ぶのと同じようにだよ」
「お母さんと私の声が似ているから、気を付けてね」
「うん、声色がそっくりだし。くっ……」
私は、彼に、薄桃のしば桜を刺繍したハンカチを差し出す。
「ありがとうござ……。へっくし」
彼のくっさめは止まらず、ハンカチは有効活用された。
「よかったら、その幸せを呼ぶかも知れないハンカチ、差し上げるわ」
「手洗いして返すから、鼻水も拭いたい」
「中学生かって突っ込み入れるぞ」
「悪い、悪い。櫻絵さん」
吹き出したのは、母だ。
「漫才みたいさね。はーはっはっは」
ここで、一首。
『子を望み、伯母と再会、しば桜、笑い合う旅、サブレ記念日 生原櫻絵』
「あら、駄作だわ」
独り言ちて、雀を一匹いただいた。
夫婦の部屋の戸を閉める。
母に、伯母と会った話をしそびれていたと思い出した。
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