第35話 天の恩恵

 平成十九年九月二十九日。

 これから、私達にとって驚くべきことが起こるとは、思いもよらなかった。

 梅芳が、つかまり立ちにも慣れ、ベビーカーに荷物を積んで、楽しそうに押して遊んでいる。

 ママお手製のアヒルさんプルトイもある。

 はいはいをしながら、手で転がし、夢中になって遊ぶ。


「ぷーぷー。ぶっぷーぷー」

「パパ、八月二十三日、大安の日に始まったのを最後に、お月さまが来ないわ」

「様子をみてみようか」


 もしかして、閉経なのかも知れないと心配になって来た。


「二か月にもなるけれども。検査してみようかしら」

「手術したこともあるから、慎重に行こうな」

「うん」


 薬局で求めたもので、簡易検査をする。

 私は、俯いて戻って来た。


「そうか、妊娠検査薬は、尿中に排出されるhCG、ヒト絨毛性ゴナドトロピンを検出して判断するからな。妊娠三から四週目にならないと勘違いもあるらしいから、念の為、病院へ行こうか」


 やはり、パパは私を気遣うと思った。

 私は、口をドラムに見立てる。


「赤ちゃんは、ダダダダダダダダ……」

「勿体ぶらないでよ、ママ」


 パパは目を細めて、私の唇を横一杯に引っ張った。


「恵まれました! 早い内に産婦人科へ行って来ますね」


 諸手を挙げて喜ぶ。

 パパは、私をやわらかく抱き締めて来た。


「本当か? やったじゃないか」

「やったね、にこにこっぷう」


 ひょっとこみたいな変顔を作ってみた。

 多分可愛いと思う。


「僕をあやさないで。お願い」

「面白かったかしら。梅芳ちゃんに、にこにこっぷうオンパレードちましょうね」


 ベビーサークルでハイハイして遊んでいた梅芳ちゃんと遊ぶ。


「ぷう、ぷう、にこにこっぷう」

「んまんま、まんま。ぷぷ、ぷぷぷ」

「梅芳ちゃん、お上手よ」


 もう、私は幸せ山の頂にいた。

 総合病院の産婦人科に、予約を取って、十月一日、火曜日の大安の日に行くことになった。


「大切な瞬間だから、仕事は休みを入れて、梅芳ちゃんも連れて行くよ。お義母さんには、がっかりさせないように、診察を受けてからご報告しよう」


 三人でセダンに乗り込む。


「お母さん、お留守を頼むわ」

「はいよ。お買い物かい」


 今日は殊の外混んでいるのか、随分と待った気がした。

 男性が偉そうに座っていて、妊婦さんが腰を押さえているのに馬鹿馬鹿しさを覚えた。


「ぴいい」

「よしよし。ママ、待合室にいるから、一人で行けるよね」

「OK、OKよ」


 落ち着いた四十代位の女性医師だった。


山下やましためぐむと申します。問診票によると、妊娠を確認したいとのことですね」

「はい」

「では、尿検査とエコーをしましょう」


 尿をトイレの窓口に提出する。

 エコーをする個室をノックした。


「生原櫻絵さんですか」

「はい」

「検査室の施錠をしてください」


 他の人の入室は禁じているようだ。

 エコーは、緊張した。


「お二人目ですか?」

「一人目は……」


 黙っていても仕方がない。


「産みの親がどこかにいる筈なのですが。今は私達の娘です」


 嘘を吐いてしまった。

 心を揉みながら、退室する。

 待合室でパパ達と合流し、暫くじっとしていた。


「梅芳ちゃん、おしゃぶりでご機嫌だから、次は僕らも入っていいかな」

「いいわよ。ね、梅芳ちゃん」


 待つのは慣れている筈なのに。

 気持ちが走るようだ。


「生原さん。生原櫻絵さん。二番ブースにお入りください」


 看護師に呼ばれたので、三人でお邪魔する。


「おめでとうございます。妊娠されております。最終月経開始日をれい週〇日として、六日までを妊娠一周と数えます。本日で、妊娠週数五週プラス四日です」


 私達は、二酸化炭素を掛けられたみたいにフリーズした。


「そのことから、平成二十年五月二十九日を妊娠二百八十日目、つまりは、出産予定日と想定されます」


 私達は、顔を突き合わせた。

 喉が張り付いた蛙のような声で喜ぶ。


「まあ、梅芳ちゃんとほぼ二歳違いになるのね」

「よかったな、梅芳ちゃんの弟か妹だな」


 医師は、それから先の説明は看護師兼助産師に別室で指導を受けるように促した。


「先ず、母子手帳をいただいて来てください」

「分かりました」


 初めてだと思うと、心の臓が跳ね上がった。


「母親学級を希望されますか」

「はい、お願いします」


 様々なことを避ける意味がない。


「それから、生原様は、この図のような乳首でしょうか」

「いえ、大丈夫です。陥没乳頭ではありません」


 テキパキと書類を作りながら教えてくださった。


「授乳は、母乳をご希望でしょうか」

「できましたら」

「混合でもいいのですよ。人工と母乳の」

「母として、できるだけがんばってみます」


 これから先のお話をかいつまんで教えていただいた。

 そして、病院を去り、車に乗り込む。


「僕達はもう不妊治療をしていなかったけれども、今頃、効果が表れたのかな」


 私は、虹があったら父に会えると思って、車窓から上空を見た。

 飛行機雲が境界線を描く。


「神様も見ておられるのよ」


 お父さんは、現れてくれなかった。

 雨上がりではないからだろうか。

 きゅっと切なくなって、リアシートから、彼の逞しい上腕二頭筋を中指で刺してみる。

 すると、その指を握り返されてしまった。


「また、お社へお参りに行くかい。ママ」

「やーだー。パパったら、お賽銭を奮発するから、散財にならないかしら」

「しば桜の公園は、顔パスで無料だよ」


 指切りの形になり、妊娠が落ち着いたら、お参りするお約束をさせられた。


「ふふふん、ふふんふんふん」


 私は、高い空に懸けて誓う。

 パパと梅芳ちゃんに母、一人を欠いてもならない。

 皆の幸せを願って、お腹の子を育もう。

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