第36話 母さくら
帰宅すると、大変なことになっていた。
玄関脇のしば桜は、一日で引き戸の入り口まで広がっていた。
まるで、絨毯だ。
「お母さん!」
白と薄桃の小枝が刺さるように、母が倒れていた。
梅芳ちゃんを抱っこ紐で胸に埋めながら、駆け寄る。
「しっかりして」
どうしよう。
揺り動かして、悪化してもいけない。
「ママ、今、救急車呼んだから」
「私、付き添うわ」
「いや。妊娠初期だから、母体が大切だ。僕が行くよ」
嫌なことを思い出した。
あれは、母が父の危篤を知らせる架電の前だ。
優しい父が、悪夢を払拭するように、虹を渡って会いに来てくれた。
『――さくらと自分が、手塩に掛けて育てた娘だ。綺麗な花を咲かせるのはもう暫し後になるかの。紫堂殿、何かあったらお仕置きするぞ』
父の言葉は一言一句忘れもしない。
あの後、本当に人生が終わったかのような酷い目に遭った。
全て、父のお見通しだった訳だ。
紫堂には鉄槌が落ちるといい。
しかし、人を呪わば穴二つとも言う。
私もこんな考えはよそう。
母の無事を祈る方が大切だ。
「ばあば、ねんねん、めっ。ばあば、ねんねん、めっ」
「梅芳ちゃん。とてもお上手になったのね。もうお話しできているわ」
私は、梅芳ちゃんを抱いて、母とパパを乗せた救急車のサイレンに向かって、叫んだ。
「転ばないのよ――!」
「ばあば、パッパ」
救急車が、砂利を踏みながら、茶の垣根から消えて行く。
サイレンは母とパパの道程を教えてくれていたが、聞こえなくなってしまった。
「ばあば、パッパ」
「優しいわね。梅芳ちゃん」
頭をよしよしして、茅葺の家に入る。
「ばあば、ばあばー」
「お母さん、よくお世話のお手伝いをしてくれたから。梅芳ちゃん、懐いていたのよね」
「パッパ」
「パパから、後で連絡があると思うわ」
私は、しば桜を避けて入れないかと通り道を探していた。
けれども、息を呑むことになる。
「はっ」
「ぱぴぷ」
先程の母が倒れていた所に、血が流れていたことを知る。
『薄桃よ』
『白よ』
久し振りにしば桜の声が聞こえた。
花は咲いてなくても意思があるらしい。
『私のような薄桃は、花言葉で〝臆病な心〟と言われるよ。大丈夫かしら』
『では、白い私の〝忍耐〟で根絶を避けたいと願うわ』
秋風が荒ぶ中、しば桜は、木霊するように囁きを繰り返した。
まるで、合唱のように。
「ごめんなさいね。今の私は、しば桜を恨んでいるわ。何故、助けてくれなかったのよ!」
血を浴びた荒んだしば桜を睨み付けた。
「正直、母の無事に対して〝臆病な心〟だわ。そして、待つのに〝忍耐〟が必要なの。しば桜には、縁の心があると思っていたけれども、愚かだったわ」
自身の頭を掻きむしる。
「ん、ばあば! ばあば、いないいない」
梅芳ちゃんの声に目覚め、私は、携帯電話を見る。
午後三時二十一分現在、やはり、着信はなかったようだ。
その矢先、メールで連絡が入った。
『救急治療室に入った。救急車で既に意識障害があったようで、僕も懸命に呼びかけたが、反応がなかった。 寧』
父危篤の連絡が背筋を凍らせたことを思い出した。
『母の命が危なくなる前に、病院で面会したいわ。 櫻絵』
『ママは妊娠しているし、梅芳ちゃんは小さいから、中々厳しいな。 寧』
『間に合うように、連絡をしてね。 櫻絵』
「まんま、まんま」
「ああ、そうだったわね。納豆ごはんにしようかしらね」
ベビー椅子に座らせて、柔らかいご飯に甘い出汁の効いたタレを掛けて、さあ、歌おう。
「なーっとなっとなっとう、納豆、納豆、納豆ちゃん」
こうして、歌いながらよく混ぜると、美味しそうだな、食べたいなと思うのだろう。
「うまうま」
「はーい。納豆ちゃん、あーん」
産婦人科では、ご飯をあげられなかったから、空腹のふりかけも掛かっている。
「よく食べまちゅね」
「まー」
「納豆ご飯でちゅよ」
赤ちゃんだから無心なのも分かる。
それにしても、梅芳ちゃんは、可愛い。
「まんま。マッマ、マッマ」
「あら、私ったら」
いつの間にか、膝に哀しみを落としていた。
こんな顔をしていたらダメだ。
「大丈夫よ。ママはいつでも元気だから」
すっかり納豆ご飯を平らげてしまった。
細やかに気を配って拵えた離乳食よりも、こっちの方が楽でよく食べてくれるとの矛盾がどうにも不思議だ。
「ただいま」
「あら、まだ六時よ。お帰りが早くないかしら。お母さんはどうだったの」
「パッパ、パッパ」
ただいまの代わりに、女二人は頭をくしゃりとされた。
「まあ、一つ一つ答えて行くよ。お母さんは、意識を回復して、そのまま入院した」
「入院か」
それ位は、覚悟していた。
とにかく、命に別条がないのなら、言うことはない。
「着るものなどは、病衣を借りるし、売店で下着などを買ったよ。まだ、水分も上手く取れないので、点滴だね」
「お母さんには、いつ会いに行けるのかしら」
パパは暫く考えていた。
「僕は、これから、今日と明日の分、仕事をするよ」
「明日もお見舞いに行くのね」
「飲み込みが早いね」
留守中に描いた葉書を封筒に入れて渡す。
「花とかダメだろうから、この絵手紙を持って行って欲しいわ」
「了解だよ。見てもいいかな。芸術家としての生原櫻絵ファンとしてね」
葉書に青墨で描いた絵は、白と薄桃のおしゃぶり二つだ。
そこに、添え書きがある。
『豊の秋、恙身ながら、子を宿す 櫻絵』
今の私を知って、母にも喜んで欲しいと思った。
けれども、直球過ぎる表現はしたくない。
奥ゆかしいのが、いいと思った。
「おいおい、この絵手紙で、お義母さんはひっくり返るよ。本当に」
「ああ、見えて、勘が鋭いのよね」
翌日、絵手紙を携えて、パパがお見舞いに行った。
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