第37話 無罪判定
「大丈夫かしら」
梅芳ちゃんと遊びながら、気掛かりでならなかった。
病院の方へ向かって祈る。
「私の祈りは届いているわよね」
急な携帯電話の着信音に驚かされた。
「はい、櫻絵です。パパかしら」
『僕だよ。お母さんがお目覚めになった。今から迎えに行くから、出られるように支度をして待っていて欲しい』
私は、梅芳ちゃんをベビーサークルに入れて、マザーズバッグに麦茶やおむつなどを詰める。
出る前に麦茶を飲ませておむつも新しくした。
「秋雨が悪い予感を運んで来るわ」
しば桜が蔓延る玄関で戸締りを終えた頃に、パパと合流できた。
「今はどんな病状なのかしら」
「それは分からないが、頭を打ったようだよ」
車に乗り込む。
「僕が着くなり、お義母さんは、意識が混沌とする中で、お義父さんの名前を呼び出したんだ」
パパは、時計の
◇◇◇
「……し、志朗さん」
「看護師さん、生原さくらですが、目を覚ましたようです」
僕は喜び勇んで個室を飛び出した。
ナースコールの存在を失念していたようだ。
「付き添われて来た方ですね」
「はい。生原寧です」
戻ると、うわ言は続いていた。
「櫻絵や。櫻絵はいないかえ」
「お義母さん、今呼んで来ます」
「櫻絵や……。う、うう、来ておくれ」
打ち寄せる波のように繰り返していた。
「僕が櫻絵さんではないと、分かっているようだったよ」
◇◇◇
「ありがとう。分かったわ」
「とにかく、興奮しないようにして、面会して欲しい」
病院に着くなり、パパが梅芳ちゃんを抱いて、私も病室へと急いだ。
自動血圧計に心拍数モニターやパルスオキシメーター、点滴や酸素等の管まみれとなった母がいた。
脈拍の音は、ゆっくりだ。
「お母さん、櫻絵よ」
「……さ」
暫く眠っていたようで、言葉が続かない。
無理をさせては、駄目なのだろう。
「パパ、絵手紙を渡して欲しいわ」
私は、母ばかりを見ていた。
手元にざらっとした紙が渡される。
「お、お母さん! 心の中でいいの。私の気持ちを込めた一作を見てください」
私は両の腕を真っ直ぐに伸ばして、母の方に向ける。
白と薄桃のおしゃぶり二つに、添え書きがある。
『豊の秋、
「意味が分かりますよね。お母さんなら」
泣かない。
泣かないと決めて来た。
泣かないで、見て貰おうと、懸命に我慢した。
「……さ、櫻絵」
「目が覚めたの? 分かる? 私よ、櫻絵よ」
暫く沈黙が続いた。
母の脈拍が走り出す。
「お父さんと会えたのだよ。それは綺麗なしば桜の咲く丘だったさ」
却って母を興奮させてしまったのだろうか。
「今もなお、そこに佇んでいてくれているのさね」
「どこにいるの? お父さんは」
母は、こてりと病室の丸い窓の方を向く。
それっきり、また、言葉をつぐんでしまった。
彼女の視線の先を追う。
「うーん。この窓の外なのかしら」
「見てみるかい」
一人、枯れ葉の散った木に背中を向けて、本を読んでいる男性らしき方がいた。
「もう、お父さんとは似ても似つかないわ。もっと鴎の眉毛なのよ」
男性が、正面玄関の方へ歩み寄り、消えた。
暫くすると、今度は車椅子を押しながら出て来た。
「どなたか、患者様の付き添いだったのね」
全く関係がなかった。
「ばあば、ねんねん、めっ。ばあば、ねんねん、めっ」
今はそれどころではない。
母の病状が、心に釘が刺さったように感じられる。
「ばあば、ばあば」
「梅芳ちゃん、ばあばは、おねんねしているの。ね、いい子にしていてね」
パパの抱く子の頭を私がやさしく撫でた。
私は、はっとして、声を細めた。
「パパ、先程の男性と車椅子の長い髪の方、私は見覚えがあるみたいだわ」
「知り合いなのかい」
「喉の奥に突っかかっているの。誰と言う名前が出て来ないのよ」
私は、うずうずとしている。
「櫻絵さんは、身重だから、僕が会って確かめて来るよ」
パパから、私に梅芳ちゃんが託された。
「んぱー。マッマ、マッマ」
「よしよし。パパは直ぐに戻るからね」
母が窓からの陽を浴びて、血色がよく見える。
「お母さんの大好きな梅芳ちゃんよ。そして、お腹には弟か妹がいるの。ほうら、楽しみよね」
母は幾つか数えても無言のままだった。
「お母さん、絵手紙は、テレビの横に飾りますね」
私のお手製、紙粘土で天使が舞う写真立てを持って来ていた。
これに入れて、テレビ台にことりと置く。
「ばあ、ぶ。ぶー」
「あら、おしゃぶりが欲しいのかしら」
くわえさせてあげると、おしゃぶりを舌でくるりと回す。
「上手ね」
くるり。
私が元に戻す。
くるり。
再び元に戻す。
くるり。
「あらら、可愛いわね」
母に向けておしゃぶり遊びを見せていた。
「どうかしら。アイドルでしょう」
病院のカートを引く音がする。
それと同時に、控えない足音も近付く。
あれは、パパの踵から下ろす独特の歩き方だ。
「大変だ。櫻絵さん」
「お静かに願います。
看護師の後ろから、七十代と見られる女性医師が現れた。
「お見舞いですか」
「はい。娘の生原櫻絵です。それから、夫の寧と、子どもの梅芳です」
「生原さくら様がお目覚めのようです」
医師の言葉に振り向くと、母は、薄目を開けていた。
「お母さん」
「お義母さん」
「ばあば、ばあば」
静かに、皆で覗き込み、一言を待つ。
母には、しっかり意識を回復して欲しい。
「どこかで頭を打ったようです。転んだりしていませんでしたか」
「玄関先で倒れておりました」
いつも見守っていてくれたしば桜の上に。
白も薄桃も血を含んでおり、これが凶器なのかと思った。
「救急隊員に訊くところによると、花の上にうつ伏せになっていたそうですね」
「そうです。花が広がっていたので、それに躓いたのでしょう」
いつも見守ってくれたと思っていたしば桜に罪を着せている。
「花は無罪ですよ。どうやら、倒れるときの緩衝材になったようです」
「白と薄桃が、母を助けたのですか!」
私は、目から鱗が落ちる。
医師は、母を診てくれて、看護師さんに指示を出す。
二人は、病室を後にした。
すると、急いだように、パパが口火を切る。
「さっきの車椅子を押す男性と髪の長い女性、知り合いだったよ」
「ふうーん。どなたかしら。大根畑の
私は、気に留めなかった。
「落ち着いて、聞いて欲しい」
真顔のパパと目が合って、私も一瞬で本気になった。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます