第38話 解の真実

 パパが外の駐車場の手前の方を指し示す。

 大きな白い車が目立っていた。


「あれだよ。追い駆けて、車椅子を昇降機に乗せているとき、よく確認した」

「どなただったのかしら。ねー、梅芳ちゃん」

「パッパ、マッマ」


 よだれかけに私が刺繍したミミちゃんを狙って汚す才能が、梅芳ちゃんはある。

 お口周りを拭いていた。

 

「聞いて欲しい。あの陶芸店の店長と陶芸作家の紫香さんだったんだよ」


 紫香さん。

 その実の親だと思われる名は、聞きたくなかった。


「お店は確か朱の炎よね」

「そう、夫婦になった日に寄ったお店だよ」


 あのとき、命運と言う歯車が、狂い出して回ったのか。


「そこで、群青シリーズを買い求めただろう」

「うん、普段使いの食器だから、よく目にするわね」


 物に当たるのは、よくないけれども、食器を片付けてしまいたい気持ちになった。


「陶器の話は、今は問題ではなく、あの紫香さんがこの病院に通っていることが梅芳ちゃんの件を難しくさせているのだろうな」

「パパ、冴えてまちゅねー」

「パッパ、パッパ」


 パパも大好きな梅芳ちゃんだから、大人しく遊ばせるのには、ムークのおしゃぶりがいい。

 くるりと回して遊んでくれる。


「恐らく、彼女も何某かの外科で診て貰っている筈だ」

「お母さんも外科だわ。狭義では脳のだけれども」


 何かの拍子で、顔を突き合わせてしまってはいけない。


「紫香さんが出て来られても困るわね」


 母が話を聞いていたのか、振り向いた。

 ただ、丸い窓の方をじいっと向いている。


「ママは店長さんのお名前を覚えているかい」

「確か、太田総一郎さんと仰ったわ」

「太田総一郎氏か。中々、厄介な存在になって来たな」


 この可愛らしい子を手放したくない。

 おしゃぶりで遊ぼう。


「ねー、梅芳ちゃん。くるりんっぱ」

「きゃっきゃは」


 母が、空気を吸いたそうに、口を突き出した。


「志朗さんが……」


 暫く二の句が継げないようだったが、母はがんばっていた。


「……木に寄り掛かっていたろうさ」

「お母さん。無理して話さなくてもいいのよ」


 私は、ふと思い出して、想い出を零した。


「そう言えば、持田の伯父さんが精魂込めて作られたしば桜の丘にも、木があったわね」


 素敵な公園だった。

 どうして、梨園を止めたのかは分からなかったけれども。

 元々、働き者なのだろう。


「そうそう。子どものことがあってから、暫く行っていないよね。縁の花壇の後に、丘陵から見えた恵のトチノキは圧巻だったな」

「楽しいランチが、尊厳のあるものに感じられたわ」


 今にして、思う。

 あのトチノキの下で読書などしたら、母は、素敵な父がいると妄想するだろう。


「志朗さん、会いたいさねえ」

「お父さんは、お空の虹にいるの。だから、まだ会いに行かないでね。お母さんに取り残されたくないわ」


 母は、疲れたのか、また、うとうとと微睡み始めた。

 この病院は、スタッフも腕がよく、設備も整っている。

 転院は、考えていない。


「パパ、私は心が狭いみたい。あの人には、会いたくないわ」


 紫香さんとは会いたくない。

 赤ちゃんが無事に育っていることを知られたら、奪われてしまうだろう。


「ややこしい。僕も声を掛けずに立ち去ってしまった」

「もし、ここに来られたら、私達は離散してしまうかも知れない」

「そんなに軽い絆ではないだろう」


 考えが煮詰まってしまった。


「パッパ。めんめ、ぷうう」

「怒ったらいけないか、梅芳ちゃん」

「マッマ、めんめ、あんあん」

「あら、私は泣いたら駄目らしいわよ」


 二人で笑い合う。


「梅芳ちゃんは、お見通しだな」


 母が、体を刻むように動かす。

 微睡みながら、小さく声を出した。


「櫻絵や」


 彼女は、テレビの方へ視線を送った。


「ああ、これね。私の絵よ」


 僅かに微笑んでいるかのように窺えた。


「おしゃぶりが、二つ――。いい絵だよ。櫻絵もきっと可愛い娘に恵まれたのさね」

「お、おかあ……」


 私は、泣かないつもりだったのに、誰にはばかることもなく、母のベッドに顔を埋めた。


「櫻絵や、櫻絵の子なら、きっと愛くるしいさね」


 母は、体を揉むように、咳を三つ程した。


「体に気を付けて、元気な子を産むんだよ」

「そんな、今にも虹へ行くようなことを言わないで! 私には、お母さんが必要なの。大切なのよ」


 息が詰まる程にだ。


「……愛しているの!」

「ああ、愛されているのは、分かっているさ」


 また、咳をした。

 母が体をよじったので、点滴が倒れた。


「これからは、夫の寧くんと……。子ども達とな」


 いけない。

 管が引っ張られて、腕が痛そうだ。


「愛し愛されるいい家庭を持つことさね……」


 待って。

 最期とか。

 そんな。

 間違いだ。


「お母さん――!」


 パパがナースコールをする。

 紐で繋がったボタンを押しているのは分かるが、耳の中で小さな生き物が咳をする。

 近付いてドアを開ける音すら、私の耳は掻き消してしまっていた。

 次第に、無音の中で、私は、暮らしていた。


 ◇◇◇


「白ちゃん、薄桃ちゃん?」

『私達の色をしたおしゃぶり、可憐で二人の赤ちゃんに似合うわね』

「子ども。お腹の子は大丈夫かしら」


 さっき、大分興奮してしまった。


「ママ、ママ。大丈夫かい」


 あれは、パパの声だ。


「マッマ、マッマ。なっと」


 梅芳ちゃんがお腹を空かしている。

 起きなければ。

 この暗闇から抜け出なければ。

 双眸を起こしかけて驚いた。

 ここは、思いも寄らない所だった。

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