第7章 姉妹

第39話 愛しい妹

「ママ、お義母さんと同じ病院の産科に来ているよ」

「赤ちゃんは!」


 飛び起きようとしたが、力が入らなかった。

 黄色い壁のカーテンで仕切られた部屋だ。

 計器の音がする。


『どうされましたか。生原櫻絵様』

「櫻絵の夫です。今、本人が起きました」

『分かりました。参ります』


 ナースコールで、パパが告げてくれた。


「ママは、気を失ったのだよ。後程、医師がお見えになるから、よく診察して貰おう」

「そうだわ、お母さんはどうしたのかしら」


 パパが黙っている。


「お母さんは無事なのよね」

「まあ、焦らずに聞いて欲しい」

「パッパ、パッパ。抱っこ」

「よしよし。すっかり抱っこ好きになちゃったな。梅芳ちゃん」


 パパは、つかまり立ちをしていた子を抱きかかえた。


「ママ、安心して。お母さんの容体から、看護と検査の為に暫く入院することになったよ」

「そんなに悪いのかしら」


 私は、青ざめた。


「頭を打っているから、僕も心配だしね。入院をお願いした」

「パッパ、ちょうだいな。ちょうだいな」

「はいはい、喉が渇いたのか。麦茶を飲むかな」


 梅芳ちゃんは、ストロー付きの麦茶コップで、上手に飲む。

 毎日、少しずつだけれども、成長を感じる。


「それから、妊娠が分かったばかりのママに、無理があってはいけないから、帰宅して休んだらいいと思うよ」


 医師の診察により、私の方は、頭を打つなどの身体的なものではなく、心理的なストレスからだと診断された。

 よく安静にするようにと、注意すべき点を示される。

 午後には、離床した。


「では、患者の生原さくらさんのことは、僕、生原寧にご連絡を願います」


 ナースセンターに言葉を置き、私達は病院を去った。

 三人で無事に家路に着く。


「家に帰れてよかったな」

「茅葺でも、おうちが一番だわ」


 私は、タンポポ茶をいただく。

 病院の売店にあって、これは妊婦にいいと買い求めた。


「これから、家事は僕がするよ。好きなことをして過ごしたらいいと思うよ。油彩画が大変だったら、絵手紙とか、趣味を持つのもいいと思う」

「絵手紙の方が向いているのかしら」


 彼は、家に幾つか額装してある絵手紙に目をやる。


「おしゃぶりの絵手紙に、僕は感動したんだ。ママは、どれ程子どもを愛しているのかと」


 私の髪をやわらかに抱いてくれた。

 込み上げて来るものがあり、とうとう、一つ、二つと零してしまう。

 彼の肩を濡らしてしまった。


「パン作りしてみたかったのよ。それも趣味に入れてもいいかしら」

「うん、いいと思うよ。僕もご相伴に預かりたいね」


 それから、週に二回程はパンを焼く。


「さあ、今日も手捏ねのテーブルロールですよ。パパのシチューと一緒にいただきましょう」

「いただきます」

「んま、んま」


 我が子の成長とお腹の子への想いは、絵手紙にした。


「あんよがじょうずか。いいね。ママの心だね」

「それは筆で遊ぶように書き、絵は愛らしい花をあしらった靴を描いたのよ」

「梅芳ちゃんが自由に歩けるようになるといいなと、僕も思うよ」

 

 母のいない生活が暫く続いた。

 私が思っていたよりも母に頼っているのだと分かった。


「お母さん、お帰りなさい」

「お義母さん、お元気になられてよかった」

「ばあばっ。ばあば」


 二週間後に、母は退院した。

 寧くんのお迎えで家に着く。

 しば桜は通り易いように、玄関周りは空けて置いた。


「いやいや、心配を掛けてすまないさね」


 居間でお気に入りの場所に座布団を用意していた。

 母は、座るのにも億劫なようだ。

 少し痩せたのを心配する。


 ◇◇◇


 ――平成二十年五月十四日。

 お夕飯が終わって、梅芳ちゃんも寝付いた頃だった。

 私に特別な異変が起きる。


「お腹が痛い。痛いわ」

「どうした。ママ」


 お手洗いとかではなく、尋常ではない強い波が寄せて来る。


「パパ……。もしかして、陣痛じんつうが来たのかも知れないわ」

「ママ! よし、バッグを持って行こう。直ぐに病院へも電話をするからね。安心して」


 パパは、テキパキとしていた。


「お義母さん、梅芳ちゃんをお願いします」

「はいよ、任せるがいいさ。孫の出産とか、気負わないのがいいさね」


 病院へ着くと、部屋へストレッチャーで移動した。


「あ、あ、あ、痛い……」


 もう表現力などない。

 お構いなしに、自分の身体状況を声にする。

 ――それから、陣痛が十五時間続いた。


「がんばって、ママ。他に飲み物とか要らないの?」

「み……。みーずー」

「分かった。自販で買って来るよ」


 医師が時々診察に来る。


「もう少し、がんばりましょう」


 私は、三度首を縦に振り、返事とした。

 口を開くのも辛いから。

 もう、時計を見る余裕もない。

 間違って産まれたりしないのかと、不安になっていた。


「はい、生原櫻絵様。分娩室へ移動します。腕のバンドが二つあるのを確認いたしました。イクハラサエ様で合っていますね」

「はい」


 パパは、ここからの立ち会いはいけないらしく、待合室へ行ったらしい。

 そこには、母と梅芳ちゃんもいるのだろう。


「う、うーん……」


 こんなに痛いものだったのか。

 梅芳ちゃんも生みの親から、そうして産まれたのだろう。

 病院でもなく、不意に産気づいてしまったのかも知れない。


「生原様、意識をお産に向けてください」


 はいと口を動かすも、風を吐くようだった。

 医師や助産師さんらの話し掛けのままに、お産に集中する。

 まだか、まだかとずっと思っていた。

 体感時間、地球を一周だ。


 ――五月十五日、正午に、産声を聴いた。


「んぎゃ――」


 肺胞の奥から出る一つの命が繋がった印だ。

 向こうで赤ちゃんを調べている。


「はい。こちら、同じバンドですね。イクハラサエ様とあります」


 赤ちゃんと私に、お揃いのバーコードが印字された、黄色くて外れないバンドが巻いてあった。


「おめでとうございます。お母さん」

「おめでとうございます。お母さん」


 私は、惚けていた。


「お、お母さん? おめでとう?」


 胸元で赤ちゃんを抱かせていただいた。


「女のお子さんですよ」


 クベースに入れるとの旨を承諾し、私は赤ちゃんと別々に分娩室から出た。


「気を遣わないで欲しい。僕の両親もお見舞いとお祝いに来ているんだ」

「あ、鶴見のお義母さん、お義父さん」


 思い起こせば、神奈川から呼んでもいいだろうかとパパに尋ねられていた。


「お久し振りです」


 気持ちが上ずっていて、どうしているのか内容が飲み込めていない。

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