第18話 追慕の朝
「私、綺麗になりたいと心底思うわ」
「世界で一番美しいよ」
「や、やーだー。顔に汚れ付いていないかしら」
寧くんがハンカチで頬を拭ってくれた。
「櫻絵さんと長く話せて、不幸中の幸いとはあるものだね」
「わ、私もなの。知ってたかな」
寧くんがエントランスの方を向く。
私も振り返るように見ると、顔が冷やりとした。
「さて、ビル風が強くなって来た。きっと太陽も連れて来るに違いない」
「どうしてかしら」
「理由は分からないけれども、僕は残業が伸びて夜勤になると、いつもこうだった」
風が吹く。
ビルの間に風紋如きものを拵える。
「大都会ビルで夜を明かしたことはない。けれども、明けない夜はないと信じている」
間もなくだった。
朝日が窓やエントランスから射して来た。
「朝だわ」
「そうだね」
「ステンドグラスみたい。美しい朝ね」
二人で支え合いながら、毛布を返却しに並ぶ。
親切にも、大都会ビルで
「余震は今の所大丈夫そうよ。お家へ帰りたいわ」
「櫻絵さんのポーラスターは、耐震性はしっかりしてそうだ」
ビルから、注意深く出る。
「ヒールが低くてもパンプスで転ばないようにね」
「ありがとうございます」
今になって気付いた。
お洒落をして、迷惑を掛けてはいけない。
また、手を取ってくれた。
彼のあたたかさが伝わって来る。
寒い朝に温もりを感じた。
じんわりと込み上げて来るものがある。
「電車は復旧していなかったわね」
「代替バスが出ているようだ。並ぼうか」
今は三月だ。
それ程寒くもない。
理由は分かっていた。
「手、あたたかいね」
「皆が見ていたら離すから」
「もし、見られても減る訳ではないから」
「僕は、マジックポイントが減りそうだよ」
「それは大変だわ」
私は、手を抜こうとしたけれども、彼が握り返した。
「怖いかな」
「い、いえ。愛してますから」
彼がびくりと震えた。
愛を初めて口にしたからだろう。
「櫻絵さん……」
「あのね、あの。本気なのよ」
「光栄ですよ。お姫様」
朝バスに並んで、
徒歩十五分の自宅を目指す。
「部屋の中に落下物とかないかしら」
「僕も一緒に行くよ」
「寧くんは、一つ手前の駅でしょう。私が金町駅だと知ったら、
私は、不謹慎にも楽しい気分になった。
家に着くまでも残念な光景にを目にする。
壁に亀裂が入ったり傾いたりした建物があった。
「ポーラスターに着けてよかった」
「ほっとしたわ。見た目は大丈夫みたいね」
エントランスは開け放してあった。
「一時的かも知れないが、ここから去ったのだろう」
階段を使う。
あの大都会ビルに比べたら、混乱もなく上がれた。
「寧くん、散らかっていると思うけれども、ゆっくりして行ってね」
くすぐったく微笑んで引いたドアが、開き難い。
「僕に任せてくれるかな」
「お願いします」
コツの問題ではなく、力加減だった。
「よかった。助かりました、橘の騎士殿」
「拝まなくていいからね。騎士だって。画風だけでなく、読書傾向も変わったのかな」
ドアを開けて、直ぐに零した。
「あちゃー」
「建物は大丈夫そうだったよ。少しだから片付けよう」
寧くんにもスリッパを勧め、自分も履いた。
そのまま、窓辺のしば桜の様子を確かめる。
「白が、部屋に落下してしまったわ」
鉢も割れて、どうにも元に戻せない。
「薄桃は、土を拾って戻せば、元気なようだわ。お水をあげるね」
ライフラインが復旧していた。
水が濁り気味だが、きちんと出る。
『お水が美味しい。白ちゃんは、〝忍耐〟だったけれども、崩れてしまったのかな』
私がどんなに土を寄せても、白の方は上手く行かなかった。
寧くんも手伝ってくれたが、根の状態も悪い。
「お父さんとお母さんが、折角、株分けしてくれたのに」
喉の奥から込み上げて来るのは、辛い時化だろう。
「無念さが伝わって来るよ。大切だよね」
土を寄せながら、寧くんが気が付いたようだった。
「もしかしたら、栃木のご実家にはないのかな」
「そうだわ。お母さんの広縁の辺りで、冬越しをしていたわ。春を待つしば桜が」
私は走馬灯さながら、思い出した。
「しば桜とは、フクお祖母さん、さくらお母さん、櫻絵さんの三代に渡って、特別なものなのかい」
「心の拠り所なの」
寧くんが膝を打った。
「よし、僕は園芸の知識は乏しいけれども、実家へ行ってみよう。そこで、白を元気にさせようか」
「橘の騎士殿、そこまでできるのかしら」
「今度から、白馬に乗って、しば桜のお世話をしに参じます」
畏まったお辞儀をする。
「寧くんの可愛い所を知って、ご満悦ですわ。ほほほ」
どれ程のご令嬢なのだろうか。
「分かった、分かった。櫻絵さん、先ずは、危ないかも知れないから布団を一枚捲って、ベッドに寝るといいよ。電灯などは落ちていないようだから」
言われた通りにした。
でも、パジャマになるのは、恥ずかしかったから、そのままだ。
ベッドは、ふっかりとしていた。
「控え目な愛をありがとうね」
「今日は疲れていると思うから、冷凍庫で解凍されてしまった物を食べて、力を出そう」
「明日、発とうね」
「分かった。朝九時でいいかな」
「今日は帰らないでよ」
「か、か、神様、帰らせてください」
「それは、酷いわ」
その日は、父母の夢を見た。
父とは、大学の卒業式以来殆ど会わなかったので、嬉しかった。
腕でお腹に輪を作っても、すっと消えてしまい、捉えられない。
母には、電話こそすれ、孝行娘とは呼べないだろう。
慕情を追うように、静かな朝が顔を出した。
「おはよう、寧くん」
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