第17話 甘い囁き
「あ、あの」
「疲れたろう、なるべく早くおやすみ」
頭をくしゃりと撫でられた。
特別なデートのヘアースタイルが、鳥の巣だ。
「美容院のトリートメントで、さらさらにして来たのにっ」
ツンツン櫻絵が直らない。
「寧くんに頭を触れられたのは、初めてなのよ」
むーっと頬を膨らませる。
「そうだったかな」
「大遅刻よ」
「はあ。電車は動いていないけれども」
「生原櫻絵の人生に、乗り遅れているの」
寧くんは、何もかも分かったような顔をした。
私が、本当は初めてを捧げたかったことをいつから分かっていたのか。
「ごめんなさい。僕は、大切に思っているから。結婚するまで、純でいようよ」
素直になろう。
私は、そもそも冷たい態度が苦手だ。
「うん、清くいようね。汚れを拭って欲しい」
「卑屈になっていると、もっと疲れると思う」
作り笑いを見透かされた。
それでも、素直になろう。
「そうね。脆弱過ぎたわ」
「いや、そんなことないよ。不可抗力だっただろうし、トラウマになっていやしないか心配しているよ」
先程髪を弄って慣れたものだか、私の髪を抱いてくれた。
新しい寧くんもいいと、頬を埋める。
「寧くん、皆が見ているわ」
「災害で、また別れてしまうのが怖くて仕方がない」
私へ回した腕が、肩をもしっかりと抱いた。
禁猟区に飛び込んだようだ。
このまま、恍惚に浸りたい。
「どきどきして、もしかしたら気絶するかも知れないわ」
「大丈夫、朝には起こすから」
分かっているのか、はたまた冗句か。
「天然なの、お互い様だと思うけれども」
「そうかい。仲がいい証拠だろう。さあ、忘れて眠るといいよ」
耳元の息が甘く、眩暈がした。
あたたかい彼の胸元で、眠ってしまえばいい。
小鳥の囀りで起こしてくれる。
「毛布は、大丈夫だって言ったのに」
「風邪を引いたら大変なんだよ。熱は辛いから」
さっきよりも心地がいい。
「関東大震災の中、祖母もこうして祖父と恋に落ちたのね……」
「櫻絵さん、恋を感じたのが初めてなのかい。出逢ってから僕達はお付き合いしていたよね」
私は、彼の胸で微睡んでいた。
別れ話にしたい訳ではない。
口に指を当てて暫く考えた。
「多分、友達以上恋人未満だったのだと思うわ」
「恋さえも居心地が悪ければ、愛も育たないだろう」
私の思考は停止の方へ向いてしまう。
「どうしたの。私よりも小難しい話をしていると、鶯谷大学大学院出が、賢くなくなるわよ」
「櫻絵さんは、学歴を気にしないと言ったよね。僕も偶々、心理学を活かした広告を打ち出したかったので、その研究ができる所を探して進学しただけだよ」
私は、お尻が段々冷たくなって来て、流産したときを思い出した。
本当は、父親にも恵まれなかっただろうに、生まれない方が幸せだったのかも知れない。
けれども、一滴でも命を落とすことは、私の冥利が悪いだろう。
「寧くん、大学二つ行ったわよね」
「鶯谷大学の前に、
上野美で絵画漬けになっていたので、部活はギター部で気分転換をした。
同級生とは仲がよかったけれども、先輩の無情な捨て去り方に打ちひしがれたものだ。
三、四年間、東大学へ合同練習をしに向かう。
皆賢そうだとの印象が強かった。
でも、誰にも惚れなかった。
面倒だったからかな。
「東短大でも卒業制作しないといけないし、楽じゃないわよね。何でもできるのね」
「怒っているのかな」
「僻んでいます」
私は、頬を膨らませ続けている。
忘れん坊のリスさながらだ。
どこにドングリ埋めたっけ。
「さっきのツンツン櫻絵さんが直ったと思ったのに」
「だったら、私も東大学を出ないと」
「関係ないよ。学歴関係なく、燦展受賞したと思うのに。櫻絵さんが、東大学で人間関係に悩んだりする姿を想像したくない」
そんなに、上野美で友達関係を上手く築けなかったのか。
五人展にだって、呼んで貰えたのは、奇跡だろうか。
彼女達の優しさに感謝しなければならない。
縁を大切にしなければ。
「私って、そんなに人と上手く行かないのかしら」
「この地震が落ち着いたら、ゆっくりするといいよ」
「そんな呑気な気持ちではいられないわ」
余震が来た。
今頃かと思う頃に揺れるようだ。
「どうして」
彼から質問が矢文で来た。
私が駄々をこねるように、甘い囁きで返すしかない。
「だって、だって」
彼が目を合わせて来た。
「
しば桜の薄桃が、遠く私に囁く。
『私の花言葉、〝臆病な心〟を振り切って。これは、一世一代の求婚よ』
懸命な寧くんの瞳にやられた。
もう仔犬を感じてはいけないだろう。
「後漢書を引用して、三度目のプロポーズなのかしら」
私の声が暗くなった。
彼は、どこか知性派で、私みたいな芸術爆発派とは、反りが合わないだろう。
「そうだよ。どんな言葉になっても僕の気持ちは変わらない。願いを込めているんだ」
彼は、私を毛布に包んで、ビルの壁に寄り掛けた。
「僻んで悪かったわ」
「それも櫻絵さんだから、大丈夫だよ」
芋虫みたいになったので、自分で解く。
すると、外気が入って来て、鳥肌が立った。
「平成元年四月だったね。メトロの出逢いは、櫻絵さんが上野美大一年生、僕が鶯谷大学三年生の頃だった」
「震災の中、想い出のアルバムを開くとは、私の祖父母と同じだわ」
やはり、毛布を巻く。
そのまま、寧くんの懐に転げ込んだ。
「寝物語にいいと思って」
「言葉は要らないの。顔を埋めているだけで、心音が聞こえてとても落ち着くわ」
さらさらと私の髪が肩から落ちる。
手櫛でもいい。
今、綺麗に輝きたい。
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