第19話 信頼の階

 私は、電話のコールをしぶとくしていた。


「西田さん、他の皆も無事でよかった。私の作品は窓際で壊れてしまったようね」

『昨日が搬出だったけれども、生原さん、来なくても大丈夫よ。無残な姿になってしまったから。よかったら、破棄するけれども』


 あの地震では、仕方がないだろう。


「お願いしてもいい? 西田さん」

『悪く思わないでね。我が子とも思える作品が、跡形もないのは哀しいから』

「皆が無事なのが一番よ。では、またね。お電話ありがとうね」

『こちらこそ、生原さんから、かけて貰って嬉しかったよ』


 寧くんも起きたことだ。

 隠すこともないが、心配させないように、後ろで受話器を置いた。


「櫻絵さん、おはようございます」


 私は、湯を沸かしてあたたかいコーヒーを作り、一杯は寧くんに、残りを水筒に注ぐ。

 飴は別の鞄に入れよう。


「私、早く起きてしまったの。混んでいるかも知れないわね。明け方の内に出発よ」


 荷物を積んで、私の車で行く。


「箱に入れた白に、薄桃も里帰りの為連れて行くわよ」


 私の膝を狙っていたけれども、揺れてしまうと思ってリアシートの下に置いた。


「その為に行くのだものね」


 しば桜がこんなにも愛おしい。

 揺れないように毛布で固定した。


「寧くんのご両親は、たちばなきょう様としゅん様と仰ったわ。鶴見つるみにお住まいなのよね」

「そうだね。神奈川かながわ県だよ」


 寧くんが運転を引き受けてくれた。

 加平かへいインターチェンジから高速に乗る。


「震災は大丈夫だったかしら」

「父と母も自宅で何事もなかったらしい」


 ほっとした。

 まだ、ニュースが少ないが、相当揺れたから心配していた。


「お会いしたいわ」

「僕にも心の準備が」

「世の中が荒れてしまった今、大切な方の大切なご両親にご挨拶したいわ」

「そこまで想われるようになったのは、ありがたいよ」


 理由は、あなたの誠実さだから。


「本当にキスさえしない騎士殿は、おられるのですかね」

「ええ? その話になるのかな」


 助手席で飴の小袋を剝いて、運転席へと渡す。


「ありがとう。いただきます」

「私は蜜柑味をいただくわ」

「うーん、フルーツではないな。カフェオレ味かも」


 寧くんは運転中だが、こちらを一瞥した。

 一緒に頬で転がす楽しみがある。


「うちにあったお菓子、詰め合わせにしたから。お楽しみ巾着かも」

「それもミミちゃんなのかな」


 彼は地頭がいい人だとは思っていたけれども、図星で恥ずかしい。


「小さい頃、おままごとに使っていたわ」


 よく思い出せば、お買い物ごっこのお財布だとか、ビー玉やとても短い鉛筆等の綺麗な宝物入れだとか、一緒に大人のきざはしを踏んで行った。

 

「これは、伯母からいただいたのよ。伯母にはお子さんがいらっしゃらないから、大層可愛がっていただいたの」

「想い出が沢山あるのかい」


 持田和伯母さん、母より十八も年上で落ち着いた印象が強い。


「グランドピアノ型をしたオルゴールや人形を買っていただいたのも伯母だったの。伯母は日本画を嗜むせいか、私が小学生の頃描いた百合の花を額に入れて、居間に飾ってくださっているわ」

「冥利に尽きるね。生原櫻絵画伯の誕生秘話だ」

「画伯は、冗句よね」


 私は、お腹が空いて来た。

 燦展受賞作、鯵の干物を思い出す。

 あれは、まぐれ当たりだから、来年はもっといいものを出さないと。


「母はね、私が実家に置いて行った絵は、全てゴミに出したわ」

「お母さんのさくらさんが? そのようなことを」

「片付けに来なさいと電話があったときに、行かなかった私が悪いの」


 彼が飴をもう一つ欲しいようだったので、再び渡す。


「おお、カフェオレ味だよ」

「ごめんね。くじ運が悪かったわ」


 暫く黙って走行していた。


「そろそろ、休憩と朝ごはんにしようか」


 私達は、上河内かみかわちサービスエリアに入った。

 名産品を食べればいいのに、カレーライスを二人分頼んだ。

 飲み物にカフェオレを頼もうとしたとき、意外な事情を知る。


「すみません。今、牛乳が入って来ないのですよ。備蓄もなく、コーヒーでしたらお出しできるのですが」

「ごめんなさい。昨日の今日ですものね。ブラックで、ホットコーヒーを二つお願いいたします」


 食後のコーヒーが届く。


「ありがたいと思わなければならないな」

「二杯のコーヒーにもお水を使っているわ。実家に帰って、様子を見ないと。母は一人暮らしをしているから」

「僕も気を配るよ」


 私達は、日持ちしそうなお土産を求めた後だった。

 公衆電話が目に留まる。


「もう直ぐ着くから、電話を入れておくわね」

「ああ、それがいいよ」


 七回コールしても出ない。

 もう一度かけ直す。


「電波が悪いのかも知れないわ。後で、機会があったら、かけ直すわね」

「ご無事を祈っているよ」


 暫くしてかけ直したが、一向に出ない。

 私も焦りが出て来た。


「母が、家で倒れていたらどうしよう」

「その為もあって、僕達は行くんだ」

「うん、実は朝も連絡を取ろうとしたの。でも、寝ているのか、出てくれなかったわ」


 しば桜の白を元気にさせるのは、名目だ。

 母のお見舞い、無事な姿を見ないと。


「母の為か。寧くんのあたたかい配慮、感謝以外にないわ」

「もしものとき、櫻絵さんと僕の心はかたとはならない」

「心は別れないのね」


 私は、優しい彼氏を振った理由が分からなくなって来た。


「学生のときは、ごめんなさい。男性を皆、色眼鏡で見てしまっていたの。心まで沁みる思い遣りが分からなかったなんて、やはり、私が五つ下だわ」

「自分を卑下しない方がいいよ」


 そろそろ、一般道に出る。

 栃木とちぎインターチェンジだ。


「将来の夢は画廊なのだろう。僕も寄り添って行きたいよ」


 高速で私は走馬灯のようだった。

 大学で揶揄され、父が亡くなり、再び寧くんを信頼して。

 信用とも異なる信頼を幼い頃から大切にして来た。

 最も信頼しているのは、誰あろう助手席の隣にいる。

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