第4章 恵愛
第20話 頬焼く焔
「お母さん。いるかな」
実家の砂利道に車をバックで入れた。
十二月に来たときは、薄雪を被っていたしば桜が、顔を出している。
芽吹き、花開くのは、来月も下旬だろう。
「ただいま。櫻絵です」
つーんとした空気が流れた。
「上がりましょう」
「そうだね」
寒さではなく、彼は肩を小刻みに震わせた。
「寧くんも緊張しなくて大丈夫よ」
寧くんが首肯する。
私は玄関に鍵が刺さっていることに気が付いた。
「本当にお留守みたい。畑に回ってみましょうか」
玄関の右手に勝手口がある。
そこから直ぐに大根達が埋められている筈だ。
「櫻絵」
「お母さん、今日は沢庵かしら」
心なしか、溢れて来るものがあった。
「櫻絵や」
「ただいま」
何度も頷くだけだ。
「櫻絵ではないかい。お腹を壊したのさね」
「――そ、そうなのよ。ぽんぽん痛くしちゃったのよ」
「まあ、可哀そうだこと。腹巻編むさね」
野良着で、私を抱き締めてくれた。
土の香りと朝の冷えた露を感じる。
「よく、帰って来たさ……」
「お母さん、泣いているの?」
私の胸に母が拳を作って一つ叩く。
小柄な彼女の雫が染みて行った。
「寂しかったよね。一人だったものね」
「志朗さんがね、櫻絵は本当に優しい子だと、お茶の度に呟くのさ」
母は、忘れることがないのだろう。
生前は父の包容力に助けられている所が多かった。
それでも、母は父の残念な所を一々私に零していた。
几帳面過ぎるので、家計簿にチェックが入るとか、ある意味贅沢な悩みではないかと思う。
「お父さんは、今、虹の世界にいるのよ」
「七色のかい」
まだ、私の胸にいる。
「そうよ。危篤を知る直前に、私の夢枕に立ったの」
父の遺した言葉を母に伝えた。
『さくらと自分が、手塩に掛けて育てた娘だ。綺麗な花を咲かせるのはもう暫し後になるかの』
あの情景は、忘れられない。
「ほう、そんなことをかい」
あのときは、衝撃的だった。
「虹が後ろに架かっていたわ」
母がこちらを向き、泣き顔を晒す。
「聞いたことがあるさね。魂が遠くへ行ってしまう前に、虹を渡りながら、結ばれた人々の所を巡るとさ。あたしが会えなかったのはどうしてかね」
「お別れのとき、お母さんは病院に付き添っていたわよね。だからよ」
さっきから寧くんが傍にいたのだが、忍びの者かと思う気配だ。
母を励ますのに、いいタイミングだろう。
「あのね、待ち焦がれていた人を連れて来たわ」
「おお、おお。その方は、彼氏さんかえ」
「申し遅れました。橘寧です。この度はご愁傷様です」
寧くんは、最上級のお辞儀をした。
上品で誠実なのが好ましいと思う。
「まあ、あたしは野良着さ」
「素のままがいいのよ」
母の泥のある細い手を取る。
私は、ただ、母の名をいつまでも呼び続けていたかった。
けれども、がんばって微笑みを湛える。
独居老人の侘しさを先程の泣き顔に見たからだ。
「お母さん、大根持つわ」
「僕にもそちらの籠を持たせてください」
母の豆鉄砲を食らった顔が堪らなく愛おしい。
畑から直ぐの勝手口から、母が上がる。
大根と籠を引き受けてくれた。
「橘さん、櫻絵や。玄関の鍵を取ったさ」
「お母さん、昔のままね」
「誰もあたしの所に来ないさね」
履物を脱ぐのに、こんなに不適切な建物はない。
時計のある部屋が、土間よりも随分と高くなっているからだ。
「タイトスカートだと難しいのよ。寧くん先に上がって」
「分かった。手を貸そうか」
「危ないからいいわ」
幼い頃を思い出す。
右手に黒電話が相変わらず鎮座していた。
この上に貼ってある電話番号一覧の一番上に私のナンバーがある。
母が頻繁にかけて来るが、この番号は見ていないだろう。
もう、指が覚えたから。
先ずは、お仏壇へ行った。
遺影の前に背筋が伸びる。
「……お父さん」
私が、呼び掛けただけで、亡くした哀しみが深まって行った。
寧くんも手を合わせて、静かに瞼を起こす。
小さな足音が聞えた。
母だろう。
「櫻絵や。そうさね、お茶にしようかい」
「ええ。お母さんの背中が幻だと思ったわ。大根と話していたわね」
孤独感が夢ではない。
現実に迫る夜が怖かった。
「私、心配していて。もし、お父さんに続くようなことがあってはいけないと」
「櫻絵さん、口にしない方がいいよ」
寧くんを居間に通した。
この家も寂しいだろう。
父もなく、私は東京へ出ており、母一人だ。
独居老人とはよく表現していると思う。
私が煎茶を支度し、母は漬かった大根を持って来た。
「お母さん、痩せちゃったから。お土産よ。お饅頭だけれども、餡子が体にいいらしいわ」
「あたしのことなんて、心配しなくていいさね。それより、揺れたろうさ」
大都会ビルのエレベーターを思い出して、冷やりとする。
「地震でね。丁度、彼にプロポーズしようと思っていたのが台無しだわ」
「櫻絵さんから? あのレストランでかい!」
私の方からが寧くんへの負担が軽くなるだろう。
大学で揶揄された位で、喫茶檸檬で振ってしまった私。
免罪符としようと思っている訳ではないけれども。
「嫌いだったかしら」
「僕からもする予定だったよ」
いつも温和な寧くんなのに、少々お冠のようだ。
「あらあら、お似合いさね」
「もう、お母さんったら」
母が沢庵にしようか、お饅頭にしようか迷っている間に、顔が綻んだ。
「あたしがさね。さくらの
「イニシャルの話かな。エスだなんてどうしたの」
母は急いで沢庵を食べてお茶を啜った。
「僕が、
「それさね。同じくSの櫻絵と惹かれ合う訳は、磁石のようさ」
話に花を咲かせていた。
間もなくして、切り出す。
「ああ。しば桜が土から離れてしまったのよ。こちらへ来たら元気になるかなと思って持って来たわ」
私が車に戻って、再び柱時計の所に戻ると、寧くんと母が畳の上で手をついていた。
「しば桜のように、美しく花開く櫻絵さんを大切にいたします。どうか、お嬢さんを僕に任せてください」
「櫻絵、櫻絵を幸せに……」
言葉少ない母がとても小さく感じる。
静謐なときは、一陣の風のようだった。
私は、柱の後ろで、涙を拭うしかない。
胸が高鳴り、じっとりと手を繋いだときを思い出した。
それから、
「しば桜が、お母さんのお陰で元気になれてよかったわ」
「そんなに気に入ってくれたのなら、志朗さんも虹で喜んでいるさね」
「明日は、雨が降るわ。虹が出ないかしらね」
その日、再び母の為にお風呂を支度した。
薪の焔が、私の心を抉り取る
新しい薪をくべる。
頬を焼き、間もなく寧くんと夫婦になるのかと、思い耽っていた。
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