第22話 美しい姓
私達は、晴れて結婚することとなった。
楽しさを通り越して、眩暈さえ覚える平成八年三月二十一日は、雲一つなく美しい。
朝八時三十分には、市役所に着いていた。
私は、髪をバレッタで留めて白いワンピース姿、彼は、濃いグレーのスーツがカッコいい。
「ねえ、本当に生原姓でいいのかしら」
「気にすることないよ。一人娘だしね」
「橘寧くん、キミも一粒種だぞ」
寧くんは破顔一笑する。
婚姻届の『婚姻後の夫婦の氏』の欄は、『妻の氏』にチェックがあるのを確認した。
その他の項目も全てよく確かめて、提出する。
「大丈夫かな。受理されるだろうか」
「そこで、ネガティブかな」
すると、私達が呼ばれた。
「ご結婚誠におめでとうございます」
「あ、いやはや。ねえ、櫻絵さん」
「ええっと、こちらこそ。ありがとうございます。お手数をお掛けいたしました」
私達は、緊張まで揃っている。
役所の方は、お幸せにと、祝福してくれた。
「櫻絵さん、お茶でも飲んでから帰るかい」
「近くに益子焼のお店があったわよね。そこで、お待ちの皆さんにお土産を買って、おうちでモカをいただきたいわ」
それはいいと、寧くんが首肯した。
お店、
追うように、寧くんが入って来る。
「はい、いらっしゃい」
小さく口髭を蓄えた店長らしき方だった。
「あの、あの。店頭にあった大きなお皿は売っておりますか」
「残念ながら、あれは非買品です。
人間国宝の作だったのか。
致し方ない。
「櫻絵さん、見る目があるんだね。流石、上野美大だ」
「お客様は、美大を出ていらっしゃるのですか」
「東京の上野美術大学を出たばかりです。専攻は、油彩画でした」
役に立つとは思わなかった芸術の学びが、嬉しい程に胸の戸を叩いた。
「ほうほう。その眼でも真贋が正しいのだね」
店長は、よく分からないで仕入れたのだろうか。
「軽いひび、
「櫻絵さん、芸術に関しては一段と細やかだね」
「そうでもないわよ」
忘れていたけれども、絵画も描きたいと思うようになって来た。
「ねえ、この群青のもいいわね」
「一つのコーナーを任されているのか」
寧くんが、顎に手を当てて感嘆した。
「こちらは、新人の
店長が案内してくれる。
「おお、青みがかったシリーズものだね」
寧くんは、楽しそうな顔をした。
「結婚の記念に、一揃い買って行こうか」
「そんな、いいのかしら」
「新婚生活にもいいだろう」
「わあ! ありがとう。寧くん」
近頃、驚かされてばかりな気がする。
店長が一つ一つ割れないように包んでくれた。
その間、寧くんの背中にのの字を書いていた。
動じない彼が可愛くない。
「お客様のご結婚でございますか」
「僕達のです」
「私達のです」
嬉し過ぎるからだろうか。
斉唱するように答えてしまった。
店長が奥へ行くと、今度は二人で戻って来た。
妙齢の背筋の伸びた女性だ。
「私が、紫香です」
「ああ、この作家さんなのですね」
私は、同じ芸術家として、興味を持った。
特に、手の節々がしっかりした所に目が行く。
「この度は、誠におめでとうございます」
彼女は、深く頭を下げる。
「ありがとうございます。このような素晴らしい作品をお若くして作られるとは、驚きました」
「まだまだ、修行中の身ながら、店長が置いてくださるので、甘えてしまっております」
「ははは。ご謙遜を」
寧くんと二、三話していた。
その様子を見て、どうしてなのだろうか。
紫香さんと店長に、紫色をしたしば桜の香りがした。
「陶芸を志しているからなのよね」
独り言ちてみても同じ空気感は否めない。
「おお、昭和四十一年ですよね。僕と紫香さんは、同い年なのですか」
「そうなのですか」
今、婚姻届を出した二人に割り込もうなんて、聞き捨てならなかった。
「あら、寧くん。私、五つ下でもやっかまないわ」
「櫻絵さん。結婚してもう一日目だろう。止めようよ」
いつから、私は意地悪くなったのだろうか。
「独占欲を持っていただきまして、僕は嬉しいけれども」
「ふふふ」
私はにやりと笑ってあげた。
店長は、綺麗な梅柄の包みに熨斗紙もあしらってくれた。
「少々重い品となりますので、お車で配達いたしますよ。どちらですか」
「店長さん、それは悪いですよ。栃木市でも遠いですよ」
「折角だし、お願いしようかしら」
私は、虫歯の痛むポーズで、考えている感じを出す。
「櫻絵さんったら」
「はい。生原ご夫妻、了解いたしました」
夫婦茶碗、箸置き、ティースプーン、夫婦湯呑みと急須、コーヒーカップとドリッパー、ティーカップとソーサー、鉢、大皿と中皿と小皿、焼き魚用皿と鳩型のお皿、スープボウルや丼、二合徳利とぐい吞み、記憶にあるだけでこれ位だ。
流石に申し訳なくなって来る。
「すみません、丁寧にお包みいただいて」
「いらっしゃって直ぐにお得意様です。お客様は、ありがたい存在ですから」
紫香さんも運ぶのを手伝っている。
「ああ、ありがとうよ。ここからは自分が行く。紫香は、制作に戻る前に、店番していて欲しい」
「店長、私もお客様へお届けさせてください」
「そうか。気持ちも贈り物だと思う。自分と来なさい」
群青シリーズは、ワゴン車に、しっかり詰められた。
「私達らしいお買い物ができてよかったわね」
運転席が寧くんを吸い込み、私も助手席で膝を揃える。
セダンで先を行くと、ルームミラーにワゴン車が微笑みながら祝福してくれていた。
「ささやかだけれども、僕からのお祝いだと思って」
「あら、これからは生計が一にするのではなくて」
「ま、参ったなあ。仲良くして行こうな」
間もなく、実家で母を喜ばせることができる。
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