第5章 授産

第26話 子宝の社

 ――それから、しば桜の咲く季節となった。

 平成八年四月十五日のことだ。


「寧くん、私のお祖母さんに会ってくれないかしら」

「こちらからも頼むよ」

「きっと喜ぶわ」


 夫に先立たれてから、自ずから貯金を切り崩して、誰に迷惑を掛けるでもなく、県内のホームにいた。

 介護付有料老人ホーム『しばざくら』だ。


「よく来たね」


 背中を小さく丸めた祖母と握手をする。

 すると、千代紙にさらっと書き出した。


つまと妻、永遠とわを誓いし、しば桜。 生原フク』


 句を認めたものを渡してくれた。

 九十を過ぎているのに、達者な上、筆も確かだ。


「即興ですまないが祝いの句だ。二人とも末永くお幸せに。おれは、茅葺の家が懐かしい。五右衛門風呂も」

「わあ、それも絵手紙にしますね」


 とてもお元気そうで、握手をして、別れた。


「櫻絵や。大変さね」


 母方のフクお祖母さんが、ホームから救急搬送されたとの一報が胸をざわざわさせた。

 私達は、何も持たずに、駆け付ける。

 書きかけの俳句を見掛けた。


『腹が痛いと、泣く子あり。 フク』


 誰のことだろう。

 私のことだとしたら、勘が鋭いと思った。

 祖母は、その晩、花が冷え込むように亡くなってしまった。


「お母さん。九十四歳まで、がんばって生きていてくれたこと、ありがたいと思うさね」


 母、さくらの母親となる。

 夫を亡くしたばかりで、気も重いことだろう。


「私のお母さんにも長生きして欲しいわ」


 フクお祖母さんは、達者だと思っていた。

 でも、点滴が外されると、手が青白く細い。

 私は、最期のお祖母さんに会いに行けたようだ。

 あの句、生きていた証を絵手紙で表そうと思った。

 

「長生きされたのだもの。悔いるよりも、幼い日々の想い出を大切にしたい」

「そうだね」


 身内のみの葬儀はしめやかに行われた。

 私のしば桜と句を描いた絵手紙を棺に入れさせていただき、心の別れを告げる。


 ◇◇◇


 ――それから、八日後のことだ。

 庭先の白も薄桃も笑っている。

 いつも、母と三人で暮らしていたので、偶には二人で出掛けることとなった。

 母を誘っていたが、頑固にも断ってばかりだから、諦めた。

 居間にて最愛の彼にモカをお出しする。

 こんな日常があたたかい。

 それから、寧くんの好きなものをトートバッグに仕舞っていた。


「寧くん、チーズタルト召し上がらないかしら」

「大好きだよ、櫻絵さん」

「ね、チーズもケーキもお好きよね」

「僕が好きなのは、櫻絵さん」


 私は頬に直ぐ着火した。


「す、凄く恥ずかしいのですが」

「もう早くパパになりたいな」

「お父さんになりたいわよね」


 私は、結婚したら直ぐに子宝に恵まれると思っていた。


「ごめんなさい、私の体が蝕まれているのかも知れない」

「気にしないで。様子を見て、病院に二人で行ってもいいのだからね」

「そうね。考え過ぎだといいわね」


 母に手を振って、車を出す。

 調べた所、この近くに子宝の社があると分かった。

 小さな駐車場があり、そこを借りた。


「わあ、大きな鳥居ね」

「上を見ていると転んでしまうよ」


 私は、年甲斐もなく高い声で笑ってしまった。

 悩みは深刻なのに、彼と一緒だと楽しくて微笑ましくなってしまう。

 会釈をして、鳥居を潜った。


「このお社ね。思っていたよりも新しい感じだわ」

「どうやら、修繕をしたようだよ」


 境内の立札を寧くんが読む。


「それに、絵馬を見ていると、双子ちゃんに恵まれたとか、とても羨ましいご報告まであるわ」


 手水舎で手水を取った。

 神社の注連縄の方へ行く。

 会釈をして、お賽銭を入れた。

 鈴を鳴らして、二拝二拍手一拝で拝礼する。

 

「拝みましょう」

「お願いして行こうな」


 お互いに目を合わせた後、思わず心の声が出てしまった。


「子宝に恵まれますように」

「子宝に恵まれますように」


 軽く会釈をして退き、元の参道を戻った。


「願いが叶うといいわね」


 それから、車に乗り込む。

 シートベルトをし、走り出して直ぐだ。

 一人妄想していた情景が浮かぶ。

 あれは、本当のことだろうか。


「今日行くときにいいこと思い付いたの。あのね、この近くに、しば桜が一面にある公園はないかしら」

「栃木県にもあるようだよ。もしかして、寄り道するかも知れないと思って、探してあるから」


 この抜かりなさは、妻の為かと思うと照れ臭くなる。


「母がね、結婚を決めたのが、しば桜の綺麗なスナップとして残っていると教えてくれたの」

「お義母さんは、庭を大切に育てていらっしゃるから、訳があるだろうと思っていたよ」


 園芸には詳しくないだろうに、しば桜にだけは熱心だ。


「どこか訊けばよかったけれども、母から、はっきりと、話では美しさも感動も伝えられないと断られたわ」

「人の心は、煌めきを胸に秘めたいと働くことがあるのかも知れないね」


 今でこそ、漬物好きの五十を過ぎた母だが、父との日々に長く美しい風鈴の音が聞こえて来る。


「母の青春だったのかしらね」


 彼が、車を出すと声を掛けてくれた。


「沢山写真を撮ろうか。しば桜と櫻絵さんとを」

「写真をどうするのかしら」


 籍を入れたときも写真を失念していた。


「さくらお義母さん、多分、若い頃は櫻絵さんと似ていたのではないかい」


 そうだった。


「私は、小さい頃から、フクお祖母さんがお針をしている傍にいたそうなの。お弟子さん方がね、可愛がってくれて、お師匠さんそっくりだと仰っていたと聞いたわ」

「初めて知ったよ」

「お世辞かも知れないけれどもね」


 寧くんが、やわらかく微笑む。


「お墓参りに行かないとね」

「また、時間を作りましょう」


 話を弾ませながらのドライブだ。

 遠いと思っていたが、直ぐに車が公園の駐車場に入れられた。


「これが、しば桜の公園なのね」

「元々は農地だったらしいよ。土地の持ち主の方が趣味で始めてここまで大きくしたらしい」

「うーん、楽しみ」


 車から荷物を出す。

 トートバッグには、例の物も無事入っていた。


「チーズタルト、チーズタルト」

「おーい。僕をからかわないで欲しいけれども」

「いいから、いいから。行こう」


 彼の背中を押しながら、ゆるやかな坂を上る。

 階段を五つ踏むと、入場口があった。


「大人二人でお願いします」

「六百円になります」


 受付のおじさんが顔をほころばせている。


「おや、さくらさんのお嬢さんじゃないかい」

「にょ?」


 私は、一瞬にしてひょっとこになってしまった。


「生原さくらでしょうか」


 寧くんがフォローしてくれた。


「じゃあね、おつりは、六百円だよ」

「いえ。これはいただけません」

「おつりだから」

「いえいえ。訳も分からずには、受け取れませんよ。申し訳ないのですが」


 おじさんと寧くんの間で、行ったり来たりしていた。


「おじさんはね、持田と言うんだ。持田大だよ。櫻絵ちゃん」

「和伯母さんの旦那様ですか!」


 私は、記憶の糸を辿る。

 この間の葬儀にも来られなかった伯父だ。


「確か、梨を作っておられたと聞きましたが」

「よく知っているね。どうしてここにいるのか知りたいかい」


 私は、唾を飲み込んだ。

 そして、首を縦に振る。

 母と伯母とその旦那様にどんな関係があるのか、興味がない訳がない。

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