第9話 雷鳴墓場
「夜用ので何とかならないかしら」
買い置きと一式の支度がお手洗いの棚にある。
苦労して手当をしたものの間に合う量ではなかった。
「二枚でもいいわ」
そのとき、季節外れの雷が光った。
すぐさま音も聞こえる。
「きゃああ……」
背中にナイフを突き立てられたように驚く。
刹那、電話に呼ばれた。
「誰? どちらでもいいわ」
番号を知っているのは、母か寧くんに決まっている。
這って出て、居間の電話に縋った。
「はい、私です。助けてください!」
『櫻絵かよ』
「ひいいい――!」
紫堂、あのオトコだった。
受話器をクッションに投げる。
あれ程頼っていた電話なのに、ただの凶器になった。
大学のどこかから、私の電話番号を得たのだろう。
「あのオトコ、私の前から消えてよ! あああ、私の赤ちゃんのベッドが死んでしまった……」
私が打ちひしがれる間隙をついて、もう一度大きな雷が光った。
しば桜のシルエットが黒い受話器に落ちる。
悪魔の道具はもう捨ててしまえとも思ったが、母や寧くんだといけない。
元に戻すなり、けたたましい鳴音が私に刺さって来た。
「また、紫堂だろう……。人殺しめ。天使を殺した悪魔め」
がむしゃらに出る。
「しつこいから。もう近寄らないでよ!」
黒電話が穢れたようで、腕を伸ばして一夜限りのオトコを怒った。
直ぐに通話を切ろうと思ったけれども、弱々しい声が漏れ聞こえる。
訝しみながら、耳に当てた。
「私だけれども」
『櫻絵や、どうしたのかい』
急に炬燵に蜜柑のあたたかくも甘い声が届く。
母だった。
「ごめんなさい。悪魔と人違いをしたわ。大きな声を出して、本当に悪かったわ」
『櫻絵や、心配ごとに遠慮は要らないよ』
「お母さん、あの、あのね」
一言目が出なくて、こんなに困ったことはない。
遠方におり、父の件では力落としの母に、相談するのは酷だろう。
『どうしたんだい。多分、青い顔をしているんだろうよ』
「流石に分かるわよね。あのね、お母さん」
口にしたくなく、戦慄が走った。
でも、母からの助言があるのかも知れない。
黒雲には、まだ雷が潜んでいるのだろうか。
その上は、きっと天国だろうに。
「流産したみたい。こんな不浄な娘を怒るかな……?」
一際大きな雷鳴が轟いた。
肩を震わせる。
雷が怖いのではなく、こんな暗い空に、初めての赤ちゃんを逝かせてしまったのが悔いられる。
しかし、一夜限りだから、あのオトコの子に違いない。
「私が神の子でもないのに、聖母マリアのように、人知れず子を宿していたことを叱るわよね」
『人の子は、人と思わないかい』
人の子、それすらも無事とは思えない。
「赤ちゃんはそうよ。でも、通りすがりの受胎が、私をもう子を望めない体にしたのかも知れない」
『気を付けるんだよ。病院へ行くのに、人生が転ばないように。掻把した後は、また子ができやすいからね」
恐らく、今までで、一番母らしいことをしてくれたと思う。
再び、お手洗いへ駆け込んだ。
体の状態が悪くなるばかりで、救急車かタクシーを呼ぶしかないと決めたはいい。
思考は鈍り、背中を丸めて、百十番だったか百十九番だったか迷っていた。
「寧くん」
私の脳裏に、あたたかい笑顔が過る。
彼なら、後部座席に乗せてくれるかも知れない。
遠くで雷鳴が孤軍奮闘し出した。
ポーラスターから出るのにいい機会となったのか。
「寧くん、寧くん、寧くん」
急ぎ、コールする。
「一、二、三、四、五回目の呼び出し音。留守かしら」
一旦受話器を切って、再度かけ直す。
「寧くんが出ないわ」
私は、これから知らない人になって行くのか。
後ろ向きに考えていたときだった。
雷鳴とともに電話が震え出す。
「誰かしら」
『櫻絵さん、僕に電話をくれたよね。出遅れてごめん』
今更感たっぷりの寧くんだった。
嫌味が通じるだろうか。
「よかった。入水しようと思っていたの」
『何かあったの?』
人生初にして、人生の終わりがありました。
「今日がハッピーバースデーだったりするのよ」
『ふざけていないで、きちんとお話しして』
そもそも、どうして電話をしようと思っていたのかを振り返る。
助けて欲しかったのではないか。
私は混乱している。
「あ、赤ちゃんが……」
二の句が継げなかった。
自分のことなのに。
『分かった。何も言わないでいいから、お家であたたかくしていて。車で向かうよ』
「いいの。もう終わったことなのよ」
また、やけっぱちの櫻絵ちゃんになっていた。
『母体は大切にしなければよくないからね。いいかい、僕との信頼関係だと思って休んでいて欲しい』
すると、ゆっくりと通話が切られた。
『お電話ありがとう』
彼の言葉が耳に残る。
「もう、思考力がないわ。私の道はどこからどこへ繋がっているのかしら」
段々と血の気が引く。
「あたたかくしないとね」
部屋の隅へ追いやったミミちゃん布団にくるまった。
「ごめんね、ミミちゃんが汚れちゃうね」
自分でも制御できない程の血で、どうしようもない。
ミミちゃんの耳を撫でてみた。
もしも、赤ちゃんがいたのなら、ベビー布団を隣に敷いて、パパと川の字になるのだろう。
昼でも夜でも、あなたを愛していた筈の未来を描いていた。
「あああ……」
後悔しかなかった。
真っ黒な塊が私を覆い尽くす。
「気持ち悪いわ」
少し雷が遠くへ行ったのだろうか。
窓から差し込む雷光が私を弄る。
神様は宗教画でしか知らなかったけれども、きっといる。
これは、怒りの
背中にすんと刺して来る。
「電話?」
躊躇う余裕もなく耳にあてた。
「はい、生原です」
『櫻絵かよ。俺だ、玄関開けろ』
遠のいていたと思った雷が傍に墓場を作った。
コイツを殺して、私も川へ身を投げるんだ。
悪い感情に支配される。
出て行ってと追い払うつもりなのに、体は鍵を開けたくなっている。
「今、動けないの」
『助けを呼んだり失敬な悲鳴を寄越すから、来てやった』
「待って」
寧くんがこちらへ向かっているのを思い出した。
「やはり、出て行ってよ」
『どっちなんだよ!』
強く言われて困った頃、チャイムが鳴った。
絶対、寧くんだ。
「やめてよ」
最悪な関係から、抜け出せないでいる。
沼に片足を取られていた。
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