第5話 箱の奥底
「お父さんとお母さんの愛は、パンドラのように開けないでね」
「その話、最後はいいことがあるんだろうさ」
パンドラの箱は、私が幼い頃に読み聞かせて貰っていたお話だ。
幾度となくせがんだのを覚えている。
母の覚束ない記憶は、齢の五十で片付けようと哀しんだ。
「まあ、災いの後に希望があるけれども、そもそも触れてはいけないものよ」
「折角、葛飾から宇都宮に来たんだ。志朗の為にもゆっくりできないかね」
母が出涸らしを益子焼に注ごうとしている。
「こちらも美味しいわよ」
別の茶碗に、深く澄んだ緑の煎茶を差し出した。
夫婦湯呑みで、二つ合わせると淡い花模様が浮き出る。
私が美大で焼いた物だ。
「お母さんのお茶は、私がいただくわ」
二人きりの夜に静謐な雪を聞く。
櫻絵ちゃん、お泊りして行きなさいよと妖精さんが誘った。
広い茅葺に孤独な母を置いて行くのは忍びない。
「とんぼ返りも切ないわね」
「そうだろうさ。櫻絵の布団はあるんだから」
しみじみとしていた所に、釘を刺された。
ミミちゃん布団は、隠さなければ。
帰る訳には行かない。
今夜にでもドライブしながら帰ると言う予定が、あっさり狂った。
明日発つ前に、ミミちゃんを自宅へ連れて行こう。
「お風呂であたたまるといいわよ。私が火を入れるね」
「この頃は、沸かせないんだ。土間に行けないから。専ら乗り合いバスで百円銭湯だよ」
家の群青色の五右衛門風呂も健在だった。
玄関前の柱時計は、十二時五十分から動かない。
子どもの頃は背丈程もあった振り子が、立派な鐘の音を忘れてしまった。
変わりないと信じ込んでいた家に、透明なほころびがある。
「私に任せてくださいね」
土間へ行くと、お風呂は全く使われていないのが分かった。
でも、挫けたら駄目だ。
「よっし」
お風呂への薪は、ストーブに使っているのを拝借する。
着火剤を使って手抜きお風呂と決め込んでいたが、湿気があって上手く行かない。
読まれていない新聞を巻いて、切れ込みを入れる。
内側から伸ばすと、花弁が開くようで、よく燃えたものだ。
「結構汗を搔くわ。ふうー」
団扇で風を送る。
土間で火守りをして、七時にもなっていたことを知った。
流石に、一段上の五右衛門風呂も沸いて来た。
「湯加減もいい塩梅よ。お母さん」
「もう入れるのかね。それにしても、櫻絵はいい顔じゃないさね」
軍手を外し、額を触ると煤がある。
お化粧も崩れてしまった。
独り身だし、誰に見初められる訳でもないし、致し方ない。
母に付き添って、北東の風呂場へ案内する。
「随分と痩せてしまったのね」
「そうかい」
先程の威圧感が、今はない。
着替えなどはできるようだ。
「湯加減は、如何かしら」
「ええよ」
小波が寄せる音が優しい。
お風呂が生きているようで、嬉しかった。
「懐かしいね。志朗さんがいた頃のようさね」
「お父さんは、いるわよ。夢に見た架かる虹に」
「そうだといいさね」
二人して、ぐしっと鼻をすする。
湯船からは嗚咽が聞こえた。
「煙のせいだわ」
私は、涙を拭った。
火を落とすと、家が眠ったような感覚がする。
「私はシャワーをいただくね」
「あれは、ホースらしいさ」
ホースの手造りシャワーが、懐かしい。
ぐしゃぐしゃの顔をよく洗った。
「グレーの上下を持って来て正解だったわ。寛げるもの」
湯上りに居間を覗くと、明かりの下に小さな母がいる。
「お母さん、どうしたの」
「志朗さんが、先に眠ってしまったさね」
フクお祖母さんが、着るようにと置いて行った半纏が畳にある。
母が、擦っていた。
彼女は今、ここでの生活が難しく、ホームに越したと聞く。
九十過ぎた実母が生きているのに、まだ五十の若い連れ合いを亡くすのは、辛いだろう。
「羽織ってね。湯冷めしたらいけないわ」
お茶も煎れ直した。
「目の癌が悪化してね、もう最期は、どこもかしこも蝕まわれたさ」
「お母さんの気持ちは分かるわよ。楽しい想い出を大切にして、偲ぶのも遺された私達の役目かと思うわ」
背中を擦ると、ぐんと丸くなったのを感じる。
五十歳って、それ程老け込むものとは思えないけれども。
「楽しいか。思えば忙しい毎日で、特にないさね」
「先程は、しば桜の縁だと語り出したわね。拒んでごめんなさい。聞かせてください」
母が、冷蔵庫から、大根のらっきょう酢漬けを出して来た。
しまった。
お茶うけまで考えなかった。
「結婚を決めたのが、しば桜の綺麗なスナップとして残っているのさ。話では美しさも感動も伝えられないと、湯に浸かりながら分かったものさね」
薄切りの食べ頃のものだ。
母は、すっかりくたびれたのかと思っていたが、家事はまあまあ大丈夫なのかと安堵する。
具体的な話は出なかったが、お父さんを褒める言葉だけが、つらつらと流れていた。
「お母さんは、愛していらしたのね」
「嫌いなら、死に水を取らないと思わないかえ」
その言葉を置いて、彼女はほてほてと部屋を去った。
「ふう、お母さんも眠ったのね」
さて、奥の高校まで使っていた部屋へ入る。
ミミちゃん布団が待っていた。
母の様子が怪しかったから、一泊する。
お守りの為だ。
「誰かが、東京で私の帰りを待つ訳ないわ。一泊位大丈夫よ」
突然、ポケベルが鳴った。
「誰かしら」
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