第6話 燦展受賞
『ご連絡お願いします。 寧』
「こちらから、電話しないと」
居間へ行き、覚えた番号をダイヤルする。
『夜分遅くにすみません。橘寧です』
「寧くん」
人の名を口にした日は危ない。
母が聞き耳を立てているだろう。
電話ごと部屋の隅に持って行き、囁きに変えた。
『メッセージには僕も驚いたよ。お父様はどうなさいましたか』
「それが、間に合わなかったの」
『僕は、言葉が見当たらなくて、情けない。お悔やみ申し上げます』
別れていた筈なのに。
「私、寧くんから電話を貰えるとまでは思わなかったわ。だから、嬉しいの。大丈夫よ」
彼はやはり優しい。
『ごめん。こんなときだけれども、櫻絵さんを勇気付けたくて』
「お気遣い、ありがとうね」
彼の手を打つ音がした。
『元気になれるニュースを持って来たよ』
「なあに」
『
「ええ?」
『櫻絵さんらしい油彩画だったよ。汗まで散っていそうな鯵の干物をモチーフにして、在学中より、目が肥えたと思った』
あの油彩画ですか。
燦展、初秋に応募したものだ。
まさか受賞できるとは思わなかった。
「当の私でも知らないわ」
『ハガキが来てないかな。テレビのニュースでもあったよ』
声を聴いただけで、懐かしさと私の胸の内にある裏切りが矛盾する。
彼とは、美大の頃、メトロで知り合った。
少し、うとうととして来る。
ミミちゃん布団を居間の隅に持って来て、包まった。
「雪の妖精さん、冷え込むわね」
『どうしたの。そっちは雪かい』
雪だから、熱く抱いて欲しいなど、純な彼に縋れない。
「寝落ちしたら、ごめんね」
『眠いときに寝た方がいいよ。僕は待てるから』
「寧くんは、いつも待ち続けてばかり。感謝を何度唱えたらいいのかしら」
『再び、お別れみたいなこと言うなよ。参っているんだ』
やはり、私が悪かったと思う。
別れなど言い出さなければよかった。
今日はもう、疲れていたのだろう。
睡魔に負けた。
◇◇◇
夢の中で想い出と奮闘している。
彼と知り合って、十二月で一年になるのか。
その頃、原因不明の下痢と便秘を繰り返していた。
病院へ行くと、ストレス性の
何故、罹患したのかと言えば、美大の人間関係だろう。
七月のしぶとい暑さの中、また嫌な学生に取り囲まれた。
よく、大学の同じ
「今日は、例の橘くんとお泊りなのよね。櫻絵さん」
「だって、男女の仲がないなんて、信じられない」
「櫻絵は、嘘を吐いているよ。誰だって我慢できないだろう」
どうして私のことを面白がるのか、分からなかった。
もう、十三時にもなる。
「B2パネルを背負って帰るわ。家の方が落ち着きそうよ」
とにかく、人の気持ちを踏みにじられた気がして、頬を膨らませて帰る。
「こんにちは。生原さん」
美大の前で、彼はいつものように、メトロに乗るまで送ってくれる所だった。
風にのって、若葉が舞い散って来る。
直ぐにチェックの半袖を着た彼が見えなかった。
「やあ」
彼は、待つ間に読んでいた文庫本を畳む。
いつものように、隣を歩いてくれた。
二人とも黙って手も繋がない。
余計なことを口にしたのは私だ。
「どうして、私の鞄を持ってくれないのかしら」
すると、彼は自分の顔を指で示した。
「何でまた。僕が、生原さんの作品を持つのかな」
私は、苛立っていたのだろう。
「ててて、手を繋いでもいいと思うわ」
重たいB2パネルを彼の反対側に掛け直した。
空いた左手をそっと差し出す。
「皆、僕達を見ているからさ」
「誰が見ているのかしら」
「誰って、どこで見られているか分からないものだよ」
とんだ赤恥だ。
「ごめんなさい。寧くんの心臓を掴む程、心得がないみたい」
「心臓とか大袈裟にしなくても」
赤恥が燃えるように感じる。
「少しお腹が痛かっただけよ」
「大丈夫かな。お手洗いとか」
「駅にあるわ。大丈夫だから。一人で行けるわよ」
私は鞄を左に背負い直して、駆け出した。
「待って、生原さん」
「櫻絵よ」
「生原さん、僕が悪かった」
「櫻絵だってば!」
急いだだけあり、メトロに着きそうになる。
「待ってよ、櫻絵さん――!」
「さ、櫻絵さんよ……」
一体どんな表情をしていたのだろうか。
真っ赤だったに違いない。
私の手を彼が握っていた。
「鞄は持たなくても大丈夫なの」
「ごめん。駅まで持たせて」
「もう一度呼んでくれないかしら」
「か、勘弁してよ」
私のことを下の名で呼んでくれた。
櫻絵さんと。
◇◇◇
――気が付けば、寒い。
ここは、雪の降る郷里だった。
『櫻絵さんへ。ゆっくりお休みなさい。 寧』
どうやら、寝落ちしていたようだ。
もう一度、布団に包まって唱える。
「お父さん、お母さん。私は、心を小さくしているようです。がんばりますから、見守っていてください」
実家で、いつもの朝が来た。
小さな鳥達が早朝会議を始めた所だ。
お父さんは、空で太陽のお仕事をしている気がする。
ずっと皆を照らしてくれる筈だ。
「櫻絵や、偶にはあたしが腕を振るうよ」
起き抜けなのに頼もしい言葉で、私も力を貰う。
それから、母とゆっくりご飯を食べて、家を後にした。
「櫻絵、櫻絵や――」
いつまでも手を振っているのが分かった。
ここで振り向いたら駄目だと目を瞑りたかったが、ルームミラーが母を捉える。
広縁の傍に、背丈の低い枝が這っていた。
一つも花がないのに、白や薄桃が見え隠れする。
大切な『しば桜』ではないかと思うと、胸が締め付けられる思いがした。
「お母さん。また、来ますから」
母の手は千切れんばかりだ。
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