第7話 雫の人形
「ただいま」
『おかえりなさい』
『おかえりなさい』
「あら、しば桜ちゃん」
出窓のしば桜は、両親から一人暮らしは寂しいだろうと、新幹線のホームで渡されたものだ。
実家の絵手紙は、この白と薄桃を描いた。
「ああ、家に帰った感じがする」
ミミちゃん布団は、上手く持ち出せた。
ポーラスター六〇三号室での置き場は、ベッドの上に被せるのがいい。
「もう、ミミちゃんにダイブするわ」
大の字になり、くるりと丸くなった。
布団が、やわらかく優しくしてくれる。
色々なことが重なり、人恋しいようだ。
「上野の燦展からだわね」
自宅に来ていた郵便物を仕分けていると、確かに開催のご案内が届いていた。
上野美大の頃に呼びたい友人はいない。
寧くんは、私が具合が悪いのではと幾つかの病院を探してくれた。
お腹を壊す原因はストレスで、鬱傾向があると分かる。
「あーあ、燦展か。寧くんの細やかな感想を聞かせて欲しいわ。でも、別れを告げたのは私の方だし」
布団でまんじりともせずにいた。
これでは休めないので、ポケベルに頼ることにする。
『寧くんへ。時間のあるときにお食事をしませんか。 櫻絵』
小腹も空いて、コンビニへ出掛けようとした。
ポーラスター六〇三号室を出た所で、意外な声を聞く。
「おい、櫻絵。燦展に入ったってな」
洋画科の
卒業してもう疎遠になったと思っていたのに。
「偶々だわ」
「皆でお祝いするから、これから
そればかりは、避けたい。
ミンナに、いい想い出などなかった。
「遠慮させて欲しいわ」
「どうしてだよ」
断りたいと必死に言い訳を織り始める。
「私には、在学中、一人しか友達がいなかったの」
「俺のことか。ふふふ」
昔と同じく、厚かましさは天下一だと思った。
私は、手を扇子に見立てて、自分の顔に送風する。
「そんな、愚かしい」
「おい、馬鹿にするなよ。俺だっていい所へ就職できたんだぜ」
私の顔付近にあった両の手首を引っ張られてしまった。
「痛い。暴力は反対だからね」
「櫻絵は、言葉の暴力。俺は力でバトルする。どうだ、対等だろう」
この人は、脳みそが筋肉なのだろう。
それはそれで対応するけれども、自宅前だなんて。
危険な目に遭っても誰も助けになど来そうにない。
「いいわ。一旦、マンションの外へ出ましょう。廊下で大きい声を出すと、追い出されてしまうのよ」
「それも興味深いな」
舌なめずりした顔が憎らしかった。
「階段は、清掃中の看板があるから、駄目ね」
「赤いエレベーターがあるだろうよ」
密室は嫌だと思ったが、それをこの人に気付かせたくないので、黙している。
「紫堂くん、今日はここまでにしましょう」
「どうしてだよ」
とにかく、ミンナと言う鬼門とは離れたかった。
「用件は、手紙で承るわ」
「昭和か」
「ええ、私はそのど真ん中生まれね」
「自分の方が年上だと言いたいのかよ」
紫堂くんと言い合いになっても負けたくない。
「私は帰るわ。だから、紫堂くんにも帰って欲しいの」
「分かったよ」
意外とあっさりと去って行かれた。
エレベーターのボタンを押している。
私は、安堵して自室の鍵を開けた。
けれども、急に寒気に襲われる。
ポーラスターの一階にある入り口は、テンキーでロックされているからだ。
六〇三号室のドアクローザーがゆっくりと閉めようとするのに反し、私は焦ってドアノブを引いた。
「早く内鍵をしないと」
後数ミリだ。
「んばあ――!」
「紫堂航丞!」
心臓が凍てつくとは、このことか。
「そうさ、俺は紫堂航丞だ。このドアを開ける」
「やめて」
「ははは。んばあ!」
大きな音を立てて、六〇三号室が開く。
私の心を丸裸にするかのように。
「やめて……。紫堂くん、もう帰るのよね」
「こんな上玉、舐めずに帰れねえって」
横暴にも、腕を掴まれた。
ドアから更に押し入り、部屋の廊下を進む。
白い戸にぶち当たると押し付けて、私の頬は舐め上げられた。
「嫌よ。私は尻軽な女ではないわ」
「本当かよ。お手合わせ願おうかな」
私の腹部に何かが当たる。
もしかして、紫堂くんは本気でオトコになっているのではないか。
「おい、布団あるじゃん」
「ぎゃあ! それだけは駄目よ。お母さんがくれたのに」
「お母さんだって。ぷっ。赤ちゃんじゃないか」
重たいサンドバッグが圧し掛かって来た。
私はこんなことの為にミミちゃん布団を持ち帰って来たのではない。
「櫻絵、優しくしてやるからよ」
「あっちへ行って――」
力の差を思い知った。
オトコって、馬鹿なのだとも。
そして、オンナって、弱いのだとも。
「ああ……」
何もかも初めてだった。
口を塞がれて、苦い想い出を作る。
人は、抱かれて心地いいだなんて、絶対に嘘だ。
オトコに強い不信感を抱く。
「寧くんは、衝動的に肌を合わせることなどしなかったのに。どうして、愛してもいない、ましてや恋してもいないオトコの泥臭さを受け入れなければならないの」
「はああ、櫻絵っていい体してんじゃん。お利口さんな学生の頃よりずっといいぜ」
オトコに、高笑いをされた。
拒否しているのを聞いてもいない愚かしい奴だ。
「行くぜ、俺様」
「ひい――!」
体のみならず、心にも雷が落ちたような痛みを覚えた。
顔は涙でぐしゃぐしゃになっている。
「ああ、寧くん。助けて……」
「俺様の名を呼べよ」
私の頬を片手でつままれて、タコのようにされてしまった。
「く、そこまで道化ではないのよ」
身も心も痛い思いをしながら、毅然としていた。
「ははは! 櫻絵、ヘソの上に何か痣があるんだな。いいこと知ったよ。今度彼氏に教えといてやる」
本気だと思うと空寒い。
寧くんは見たことないから。
「もし、そうしたら、自刃してやるから」
「おおお、一丁前に脅しですか。櫻絵とデートしている橘って見たことあんだよ。俺よりも背が低くて、ズボンにシャツを入れているような奴じゃないか」
寧くんは何もしていないでしょう。
「あなたには、人の内面を見ると言うことがないのね」
「俺からの贈り物は、報復だ」
「私の何がそんなに憎いのよ。あなたとは何も関わりがないでしょう」
上から、オトコの涎が垂れて来た。
はしたなくて汚い。
「上野美にいる頃から、お前のヌードに興味があったからかな。特にケツな」
オトコの含み笑いがいやらしさを増す。
「最低! 触らないで。早く帰ってよ」
「俺は何時まででもいるぜ」
「迷惑行為で警察呼ぶわよ」
オトコに、枕元にあったポケベルをカーペットに投げられた。
「ポケベル、返してよ」
「橘を呼ぼうったって、そうは行かないからな。クソ真面目な奴は、嫌いなんだよ」
「それなら、私も生真面目よ。嫌いでしょう。ねえ、こんなことするのはやめましょう」
強い口づけを迫られた。
「うざいよ」
私は涙を堪えて、オトコが帰るまで、人形のようにしていた。
小さな私は小さな出窓を見る。
冬越しをしているしば桜が、懸命に私に歌を歌ってくれていた。
『櫻絵ちゃん、〝忍耐〟で私から応援するよ』
『私からは、〝誠実な愛〟よ。きっと心から結ばれる人がいると思うの』
私の人形状態が続いている間もずっと励ましてくれた。
白と薄桃が、私の代わりに、辛さを引き受けてくれている。
「ありがとう、しば桜ちゃん……」
涙も枯れて出やしなかった。
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