第31話 母の償い

 償いをしなければならないのだ。


「お義母さん、私……」

「どうしたの。櫻絵さん」


 自ら沈黙を作ってしまった。


「あの……」


 私の口は、不随意運動をしてしまって仕方がない。

 言わないと。

 言いに来たんだ。

 言わなければ。


「私、寧くんの子を十週不完全流産してしまったのです――!」


 吐息が濁流になって、決壊した。

 ああ、告白した。

 とうとう、告白した。


「最初の産婦人科の受診で、心拍が最初から弱かったと言われました」


 嫌な汗を掻き、ハンカチも忘れて、手で拭ってしまう。


「櫻絵さん、それはお苦しかったでしょう」


 義母の瞬さんが、それは美しい白地に白い刺繍を施してあるのを差し出してくれた。


「お借りする訳には行きません」


 義母は、心配そうにずっと差し出していてくれた。


「医師は、千人に一人はなるものだからと、慰めを仰ってくださいましたが、私が近くのしば桜の綺麗な公園に行きたがったりしたものだからいけなかったと思っております」


 私は、ソファーから絨毯へ身を置いた。

 手は絨毯の桃柄の辺りに、頭は深く下げ、謝罪の形になる。


「申し訳ございませんでした」


 右横に体温を感じた。


「僕だよ。いくら櫻絵さんが真面目でも、行き過ぎては疲れてしまうよ。腰も冷えてしまうから、ソファに掛けて」

「そうですよ。櫻絵さん」


 左に義母が膝を折っていた。


「お母さん」


 私は、促されるままに、背中を丸めながら、ソファーに掛けた。


「うう、ううう……。こんなにしていただいても私の罪は消えないのです。赤ちゃんを殺してしまったのは、私の不注意からでした」

「公園へは、僕と毎年行っていたから。気が付かなかった僕もどれ程悪かったと思っているか」


 本気で謝っているのに、寧くんは関係ないだろう。


「寧くんは女の体ではないから、分からないことがあっても仕方がないと思うわ」

「いや、夫たるものできなければならない配慮だった」

「もう、もう、もう。優しくしても一銭も出ないわよ」

 

 もう、涙がぐずぐずで、よく見えなくなって来た。

 私のこと、もっと冷静な方だと思っていたのに、こればかりは思い違いだったか。

 鼻がむず痒くなった。


「はい、どうぞ」

「あ、ありがとう」


 涙と鼻水をいただいたちり紙で押さえた。


「んがっくしょっ」


 泣くと昇華されると言うけれども、初めて自身で証明できたと思う。

 十三ミリある睫毛の真珠を拭った。

 視界がぼんやりとよくなって行く。


「これは、先程のハンカチだわ」

「いいのよ。櫻絵さん使ってくださいね」


 真っ白だっただけに、ファンデーションが付着したり、私の哀しみが憑いたりして、どうにもお返しできない。


「す、すみません。洗ってお返しいたします」

「橘家の家事までしなくていいのですよ」

「そんな」


 申し訳なさが倍になった。


「それにね、もしかしたら寧さんから聞いたかも知れないけれども、私はもう子どもを望めないの。年齢の問題や婦人科の問題ではなく、心臓の問題ね」


 寧くんから聞いていた哀しいお話だ。


「ごめんなさい。嫌なことを思い出させて」

「栃木で、櫻絵さんは、真っ白になっていたんだ。僕は、よく休むようにして貰っていたけれども、思い立ったように鶴見に来てしまって」


 お義母さんは、優しく背中を擦ってくれた。


「いいんですよ。いつでもおいでなさい」

「櫻絵さん、落ち着いたらでいいから、僕とフランス旅行に行こうか。モンマルトルへも行こう」


 二人の情が、私の薄っぺらい償いなどを覆う程に厚かった。

 その優しさを支えているのは、毅然とした生き方ではないかと思う。

 義母は、命懸けで息子の寧くんを産み、義父と共に、立派過ぎる程に育てられた。

 寧くんも双肩に担った訳だ。

 

 ◇◇◇


 ――平成十七年九月二十二日。


「櫻絵さん、パリはいいよ。いよいよ、明日から初の海外旅行だね」

「旅行会社への手続きなど全てやっていただいて、ありがとうございます」


 お姫様のお辞儀をしてみる。


「そんな遠慮してどうするの。お互い一人しかいない夫婦だろう」

「やーだー! 私には、甘いのだから」


 そして、東京を発ち、パリには五泊した。


「贅沢な旅行よね」

「欧州まで来たのだから、隣国を巡ってもいいのだけれども、櫻絵さんのフランス熱には、負けたよ」

「いいでしょう、沢山呼ばれている所があるのよ」


 霊感が鋭い所は、寧くんは無理して理解しようとはしない。


「全て揃えました。お姫様」

「いやーん」

「櫻絵さんのいやーんが出たら、もう、ムンクもびっくりだね」


 私は、自分で描いたしば桜の絵手紙を日記帳の表紙にして持って来ていた。

 和尚様が、描いたのはしば桜の心だと仰った絵だ。

 旅の様子を語ると長くなるので、小さなこれに、感動したものをリストアップして行く。


「先ずは、ルーブルよね」


 ルーヴル美術館で、島で見つかった『ミロのヴィーナス』、船首にあった『サモトラケのニケ』、不思議な微笑みの『モナリザ』だけは見なければならない。

 オルセー美術館で、モネ、ルノワール、マネの印象派三昧をした。

 オランジュリー美術館で、モネの大きな『睡蓮』に圧倒される。

 ロダン美術館で、『考える人』、『地獄の門』を上野のものと見比べた。

 マルモッタン・モネ美術館で、『印象、日の出』を鑑賞し、私は印象派も好きなようだと実感する。

 国立近代美術館、つまりは、ポンピドゥー芸術文化センターで、マティスやドローネー、ピカソ、ミロ、カンジンスキー、クレー、マグリット、ダリがまるで卒業制作展のように見えた。

 ジャックマール・アンドレ美術館で、ボッティチェリの『聖母子』、レンブラントの『エマオの巡礼者たち』の宗教画も見逃せない。


「パリ市立プティ・パレ美術館で、お茶にしたいわ」


 いただいた物をメモし忘れる程楽しかった。


「いいよね、妻とお茶って」

「夫とお茶なの。もう、やーだー」


 ピカソ美術館で、ばっちりピカソ。


「うーん。満腹です」

「最後は、モンマルトルの散策と行きますか」

「いやーん、分かっているわね。寧くんったら」


 印象派の香りを胸一杯に吸い込んで、夫と腕を組んだ。


「恋人みたいね」

「僕達、何年夫婦をしていると思っているの」

「てへ」


 すっかり、機嫌がよくなって、ミュージアムのお土産もたんとお買い上げ。

 夫との絆が深まったと思う。

 ご機嫌だったので、パリ子ちゃんを狙ってみたけれども、どうなのだろうか。


「ただいま! お母さん」


 平成十七年九月二十八日に、帰宅した。

 家の垣根の前に車が停められていた。

 中を見ると、小さな花束が入っている。


「ねえ、家に用事なのかしら? それともお客様かな」

「田舎には不似合いな白いロイヤルサルーンだね」


 そろそろと玄関の方へ向かう。


「なあ! 櫻絵を出せって、婆さん」

「今は旅行中だよ」

「嘘つけ、貧乏暇なしだと聞いたぜ」


 聞き覚えのある声だ。


「櫻絵さんは、下がって。僕が応対するから」

「嫌よ、私も言ってやりたいわ」

「傷付くのは、お義母さんも同じだと思わないかい」


 寧くんが行って、話を付けて来た。

 あのオトコの車を蹴っ飛ばしてやりたい。


「駄目だ。私の負けになるから」


 オトコは、私を一瞥すると、車に乗り込む。

 花束は、窓から投げられ、無残にも自分の車で轢いて行った。


「ケッ。田舎が分かったから、会いたいだろうと思って来てやったのに」


 全くもって分からない思考の持ち主だと理解した。


「櫻絵さん、台風一過だと思えばいいさ」

「う……。ん……」


 折角のパリの想い出が、轢かれた花束のようだ。

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