第8章 春望

第42話 トンネル

 ――令和三年のゴールデンウイーク、しば桜の季節だ。

 母は七十七歳、私が五十歳にもなった。

 奇しくも、母が父を失った年齢まで、私も歳月を重ねた。


「っしょ」


 そして、私は、山を踏む。

 重いさくらと言う荷を背負って。

 こんなことなら、気取って群青の地に白い小さな水玉のワンピースを着て来なければよかった。

 白いストールは、パパに持って貰っている。


「ママ、櫻絵さんたら。意地張らないで、お祖母ちゃんはパパが代わるよ」

「私の母だからよ。パパも去年のお誕生日は散々だったでしょう」


 ◇◇◇


 ――令和二年十二月十二日のことだ。

 母が要支援ようしえんの宣告を受けた日は、不思議な巡り合わせで、父の命日に当たる。

 その日は酷かった。 

 クリーム色の病室で、彼女は、瞬間的に爆発する。


「親をバカにするな!」


 急に大声で乞い、仁王立ちになった。

 傍にいた私のボウタイを掴み掛かる。

 オレンジのブラウスは、無残な姿になった。

 この頃は風変りな母になったと思っていたが、私の心は憎らしむ訳には行かない。

 待合室の子ども達は、呆気に取られていた。

 一番先に対応したのは、生原家の長女だ。


「僕は関わらない。生原のお祖母さんとは、今や相性が悪いのが目に見えているから」


 中学三年生になった梅芳さんはすっとした顔をしていた。

 全てを否定するかのように、手で追い払う。 


「美桜っちと折り紙で遊ぼうね」


 美桜緒さんが一番祖母に懐いている。

 祖母の手を取り、自身の胸に当てた。

 安心を与える術を知っているのだろう。

 我が家の生き物担当に向いている。

 矮鶏ちゃぼを庭先に小屋を建て直して餌をやっていた。


「大人がいるから、怖くないからね。美桜っちもここにいるよ」


 祖母の具合の悪さを知らないからだ。

 だからか、しきりと宥めた。


 ◇◇◇


 ――令和三年四月十五日。

 母の獰猛化で、家庭が壊れそうだと辟易した為、介護付有料老人ホームへ入居させることとなった。

 押したばかりの印泥も乾かない内に、決行している。

 ただ、この山道へ入ってしまったのは誤算だった。

 地図と違う道へ分け入る。

 立て看板で徒歩三十分を確認したのだが。


「二度と『親をバカにするな事件』を引き起こしたくないわよ」


 口を結んで前へ進む。

 もう直ぐ、しずくトンネルだ。

 草丈が高くて歩き難かろうが、露が肢体をびしょ濡れにしようが構わない。

 荷が蠢いて屁をこいた。


「あたしのお家は、まださね」


 七十七歳を背負い直す。

 一人娘の誠意が伝わらないのか。

 催促に苛ついた。


「はいはい、お母さん。お友達が沢山おりますよ」


 投げやりにしか対応できない。

 これでは、中三になっても氷のような梅芳さんとどんぐりの背比べだ。

 二つ下の美桜緒さんのぬくもりを借りたい。


「パパでもいいかな、さくらお祖母ちゃん」

「どちらさま?」


 母だった背中が、口をべろんと曲げて惚けた顔をする。

 私は醜女と化しており、鏡を避けたかった。


「これだもの。愛情が裏返りそうだわ」


 嘲笑してしまう程に、私は汚れた。


「お祖母ちゃんはどうしたのかな」


 パパは、お人好しだ。


「僕からは、呆けたとしか」

「梅芳姉ちゃ、美桜っちだって同じだよ」

「流石、梅芳さんに美桜緒さんも心の奥では案じているとパパは信じているな」


 呑気な会話には入って行けない。

 この荷は、娘である私の責任だから。


「ママ、子ども達もお祖母ちゃんを悪くは思ってないよ」


 泥臭い汗に優しさなど届かなかった。


「老いた母を最終処分場へ送るのは、気が引けるの。だからこそ、二人分歩むのは、譲れないのよ」


 山道に入ってから小一時間、汗は睫毛からも滴って、限界を感じていた。

 直ぐ前も分からない。

 じっとりと合わさった背に、母の薄ら笑いが伝わる。

 何かが、びちりと頬に当たった。

 濡れそぼった祖母の袖で、目隠しゲームが始まったらしい。


「あたしは、負んぶ嫌い。もう疲れたさね」


 飽きて来たのか、獰猛化の階が見える。

 母の尻をずらしてどしっと持ち直す。


「もう、意地でもいいわ! 私はこの山を登り切りますから」


 この先に絢爛豪華な老人ホームがあるから。

 引き渡すまでが私の仕事だ。


「梅芳さん、美桜緒さん。追い付いているかな」


 パパからのエールだ。


「僕はいるよ」

「生原家揃っておりまする」


 この子達は、母の犯した罪を知らない。

 綺麗なしば桜の公園へ連れて行くと、志朗さんがいると呟く癖がある。


「戦中生まれのお祖母さんの狂い咲きなど、分からなくてもいいの。お父さんへの裏切り行為だからよ」


 フラッシュバックに心臓を凍てつかせていたときだった。


「雫トンネルよ!」


 肩で息をしていた。

 念の為マスクをしていたので、入り口からの冷気にはあてられないで済む。


「きっと、もう一息だからね」


 トンネルの中は、もっと足元が悪そうだ。

 汚い。

 嫌だ。

 けれども、一歩踏み込まなければならない。


「はあ、はあ」

「疲れたろう。ママは意思を貫くからな」


 急に重い荷が浮いた。


「もっと頼っていいよ、ママ」

「パパ」

『パパ、パパ、パパ』


 躊躇いがこだまする。

 トンネルが軋んだ。

 列車の懐かしい音がする。

 私だけの幻だろうか。

 コトトンコトトンと向こうから来るようだ。


「列車に轢かれるわ! 皆、壁際へ」

「そんな音は、パパには聞こえなかったな」


 幻聴ではないことを祈りたい。

 汚いと思っていたトンネルの中は、整備されていた。

 よく足元を見ると、枕木が背の順になっており、線路があったと推察できる。


「気を付けて歩いてね」


 もう直ぐだ。

 もう直ぐの筈だ。

 背負いながら後ろからも支えて貰い、枕木を目安に、直線を踏む。

 奇妙なことに、薄桃色をした明かりに呼ばれた。


『ようこそお越しいただきました。ここの薄桃よ』

「とんでもなく久し振りに聞いたわ。しば桜の声よね?」

「病気じゃなくてママの創作みたいだから、安心しているよ」


 パパが不思議なことを言っているけれども、聞かなかったことにしよう。

 とうとう雫トンネルを抜けた。

 明かりが眩しく差し込んだと思うと、一面の薄桃色が広がる。

 向こうに薄紫の建物が霞む。

 介護付有料老人ホーム『しばざくら』だ。

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