第43話 凪の波紋
しば桜の間に道がうねっていた。
薄桃色の花びらが頬を打つ。
先程まで、母を背負っては苛立っていた気持ちも凪いだ。
「壮観ね。お母さん」
まるで、持田の伯父さん夫婦が手入れをしていた公園を思い出す。
しば桜の中に一本のトチノキがあったからだ。
一本の木を背に本を読む紳士は、しば桜によく似合う。
「特にどなたも佇んでいないけれどもね」
介護付有料老人ホーム『しばざくら』のポーチに到着した。
上の屋根の下で、車椅子用昇降機が付いた白い車に赤いしば桜の文様が散っている。
このホームに決めたのは、祖母がお世話になったからと、その名称から母も好むだろうと思ったからだ。
「初めまして。窓口からご紹介されました、生原さくらと家族です」
「これは、ようこそいらっしゃいました。今、所長を呼んで参ります」
インターフォンより先に、五十代位の女性が迎えてくれた。
フレアースカート捌きの優雅なご婦人だ。
ポーチから左手の面会室へ通され、母には車椅子を私達には椅子を勧められた。
「移りますよ。お義母さん。よっこいせ」
パパが母に負担がないように座らせてくれて、助かる。
私も持って来たブランケットで、母の足腰が冷えないようにした。
「――志朗さんが、いたさね」
「お母さん!」
私は、吃驚した。
母は、とんと、まともなことを話さなくなったからだ。
「志朗さん、いい男だったさ」
「そうね。お父さんにも、二人の孫を見せたかったわよね」
「今でも、いつでも、志朗さんは傍にいるさね」
どこまで本気で話しているのか、もう、窺い知る術はない。
「お祖母さんの話ね。十数年前倒れて入院したとき、窓の外を眺めていたわよね。昨年の夏も病室で窓に気を取られていた風だったわ。今度は、ポーチ脇にあるカーテンウォール工法のガラスに目を奪われているわ」
母の気持ちが父を裏切っていないのか心配で、パパに話し掛けた。
「うーん、動物でも現れたかな? 山の中だしね」
はてさて、狸かも知れない。
「あ、姉ちゃ! 美桜っち、見に行くね」
「美桜緒さん、危ないことは止めて欲しいわ」
「僕も一緒に行くよ」
「あら、ならばママもよ」
皆で、パパに母を預けて、窓辺へ駆け寄った。
「皆して、今日がお祖母さんの入居の日だって覚えていますかね?」
「うん。お祖母ちゃんのね」
「僕も分かるよ」
「美桜っちもね」
パパに窘められてしまった。
「私が背負って来たのよ。お母さんをね。母の言により、紳士がいやしないかは、興味深いわ」
いい訳をパパは好きではないのを知ってはいた。
気まずい思いをする。
「ああ! ママ、誰かいるわ」
「うーんっと、見えないわね」
美桜緒さんには見える。
全く、立木に読書家なんているのだろうか。
「うねっていた道を青い車椅子を押しているわ」
「へー。変わった色をしているのね」
見れば、女性を男性が押している。
「ほら、木に差し掛かったよ。ママ」
「僕にも見えるようになったかな」
「うん……。見覚えがあるわね。どなただったかしら」
子ども達の案内通り、人影が動いているのが分かる。
とうとう、正面のポーチから入って来た。
「外は疲れたろうよ。でも、お日様に当たるのはいいと思うよ」
「そう。ありがとう」
車椅子を押していたのは、八十代に見える男性で、老け込んだ五十代の女性が車椅子にのっている。
しば桜の花吹雪と共に入って来た。
「お帰りなさいまし、太田様。明日のワゴンでの遠出について、後でご相談いたしましょう」
入口の女性が迎える。
彼女の口から、確か、聞いた覚えのある名が放たれた。
「太田?」
「太田氏?」
私達は、夫婦で見つめ合った。
「朱の炎の店長ではないですか?」
「作陶家の紫香さんね?」
パパに続いて私も訊いた。
どうなさったのだろう。
車椅子でホームにいるだなんて。
「これは、お久し振りでございますな。確か、えー」
「生原ですわ」
私の心臓が跳ね上がった。
もう、蚤の心臓みたいに、鼓動が走っている。
「お加減が優れないのですか? 紫香さんは」
「ああ、ちょっと、雨の日にスリップ事故を起こしてしまって、脚を圧迫されたのですよ」
私は、雨と言う呪文に唇が渇いた。
「それは、何年前の事故になるのでしょうか?」
「カンケーねえよ」
紫香さんは、私を下から睨み上げて来る。
「カンケーねえヤツは、帰れよ!」
「紫香さん、僕達は義母の入居をお願いしに来ているんだ。関係なくはない。それに、貴女の体についても心配している」
いつでも、パパは冷静だ。
「世話焼きかよ。クッソが」
「
後ろから、シルバーグレーが囁く。
「緑?」
「緑さん?」
店長が、紫香さんから視線を外した。
「七月生まれなのですよ。緑の綺麗な時期に生まれてくれたので、緑と私が名付けました」
「それでは、お子さんなのですか?」
大きな窓の外で、散り散りにしば桜が舞っている。
『櫻絵ちゃん、〝忍耐〟で私から応援するよ』
『私からは、〝誠実な愛〟よ。きっと心から結ばれる人がいると思うの』
さわさわとなびく風から、漏れ聞こえる。
「あ、しば桜ちゃん。お陰様でね、誠実に愛してくれる寧くんと結ばれて、梅芳さんに美桜緒さんにも恵まれ、大きく育ってくれたの」
いつも報告したいと願っていた。
けれども、家の庭にあったしば桜は、母が上がり口で転倒し、病院へ行った日から、次第に囁きを失ってしまった。
それどころか、今年はこの時期になっても花がつかず、手入れをしても二度と根付かなくなってしまった。
低い声が聞こえる。
店長の話か。
「ええ。この娘は、太田緑と申します」
店長が、車椅子の女性を紹介する。
「私は、太田総一郎です。一人親をしておりまして」
店長は、私達を覚えていないようだ。
「お父様とお嬢様でいらっしゃいましたか」
私は、鎌をかけてみた。
「緑さん、初めまして」
「ああ?」
どうにも判断のつかない返事だ。
パパが店長に尋ねる。
「あの、差し支えなければ、いつ
「それは、十五年程前になります」
平成十八年のことではないか。
パパの横顔を見て、私の頬は鈍い汗を掻いていた。
愛する人の手を求めて握る。
安心させてくれるあたたかさで、彼の掌をじんと感じた。
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