第3話 遺影投げ

 ご遺体は、懐かしい実家へと帰った。

 この地では、垣根にお茶を植えている家もまだあるようだ。

 その上、茅葺に土間まである暮らし難そうな佇まいに溜め息が出る。

 実家は、牛小屋と鶏小屋もある庭があった。

 前に畑を構え、後ろに煙草畑への道を伸ばす。

 道も砂利道か土を掃いたものだ。

 民家はどの窓からも見えない。

 ここは、孤島なのか。

 きゅっと切なくなった。


「櫻絵ちゃん、大丈夫かしらね」


 かず伯母さんが、私の手を包み込んでくれた。

 私は真っ黒な洋服を濡らしていた。

 長く一つに結った髪を揺らして面を上げる。

 座敷に海がうねるような座布団があり、ここは最も前らしい。

 どうして香りに包まれているのか分からない。

 眩暈を覚えたとき、袈裟が飛び込んではっとした。


「ここは、どこなの。病院で眠っていたお父さんは、どうしたのかしら」

「そうね、櫻絵ちゃんはお父さん大好きだったわよね。ご葬儀よ」


 伯母さんの落ち着いたトーンが心を整えてくれた。

 母はどこだろう。

 私の隣だったので、些か驚いた。

 彼女は、背中を丸めて抹香を額に持ち上げる。


「志朗。志朗さんは、幸せかい」


 独り言を聞いてしまった。

 三度目に高くした抹香は、花散るように香炉へと落とされる。

 私は、遺影に気が付いた。


「お母さん、笑顔のお父さんよ。いい顔をしているわ」


 母も力を落としているだろうと声を掛けた。

 俯いて言葉もなかったので、私も香炉を受け取る。

 抹香を紙縒りのようにつまむと、父の想い出ばかりが涙を誘った。

 隣の伯母さんに順番を回したときだ。


「お母さん、どうしたのかしら」


 母は、徐に立ち上がると、左上の遺影を掴み取る。 

 彼女は小柄ながら横幅があるので、さながら仁王だ。

 父を病院で看取ったときは、涙も枯れたのか穏やかだったのに。


「櫻絵や。お前さえ親孝行していれば。志朗さんも報われたさ」


 腹から捻り出す音が私を指した。

 憎らし気に私を睨め付けて来る。


「大丈夫よ。さあ、私が元に戻すわ」


 私は、笑顔の父をぐいっと押し付けられる。

 長く連れ添った間柄、母の辛さも分かった。

 心で三度も呟く。

 彼女にこんな奇行をさせる位なら、もっと気持ちを酌めばよかったと。


「櫻絵や。お父さんも泣いているさね。どうして彼氏もできないのかと、話さなくても分かるのさ」

「な、何てことを口走るの」


 私は、頬を紅潮させ、涙で汚れたスカートを握り締める。


「お父さんなら、自分の道を探すように笑ってくれるわよ」

「なら、結婚相手がいるのかい」


 人権問題に繋がることだ。

 それは大袈裟だとして、プライバシーがない。


「答え難いこともあると思わないかしら」

「ならば、連れておいで」


 母がわらい出した。

 耳に焼き付く。


「お疲れなのね。お母さんはお疲れなのよね」


 遺影は、しぶとい母から、やっと、奪取できた。

 読経の中、何てことをしているのか。


「何をするのさ。櫻絵や」

「お父さんも今はここに居たいと思うわよ。生真面目で静かな性分だったわよね」


 遺影は、生原の祖父母に並んで元に戻した。

 座布団の海から私に視線が刺さる。


「親戚の皆さんの前だから、静かになさってね」

「なおさら、孫を連れて来るがいいさ」


 周囲の空気は、冷凍庫だ。

 読経は、それでも水墨画のように流れて行く。

 和尚様には、本当に感謝だ。


「さくらちゃん。ねえ、落ち着いて座ってちょうだい。分かったから」

「姉さんに何が分かるのさね。志朗さんは孫も見ないで亡くなってしまったのさ」

「私にも孫はいないわ。持田と毎日お茶するだけなの」

「夫がいるだけましだと思わないさね」

「大さんは、貸し出しする程いい男でもないわ」


 十八歳も異なる姉妹が孫談義か。

 いや、連れ合い談義だ。

 場違いなのは、そもそも母だったが。


「お母さん、伯母さん。今は、お静かにね」


 木魚の音が座敷中をけたたましく響き渡った。

 今更だが、口に指を当てる。


「しー」


 それから、経本が配られた。

 皆で紫の表紙を捲りつつ、奏でる。

 私は、この紫が気になって仕方がなかった。

 遥か昔に目にした筈だと。

 葬儀でもなく、もっと、胸を熱くする想い出の中で。

 何かの花のような気がした。

 小さくてか弱い、けれども凛々しい姿だった。

 すっかり、花の名前を失念しているが。

 煩悩の片方では、無心で皆と共にお経を唱える。

 とこしえに続くかと思われたが、残り一枚となった。

 そして、経本を閉じると溜め息が出る。

 最後を締め括るように和尚様のお話があった。


「あの絵手紙は、心から描かれており、飾った花とは全く異なる。実にいいですな」


 和尚様が、座敷の後ろに飾ってあった私の絵手紙を褒めてくださった。

 あれは、家族三人で出掛けた懐かしい公園だ。

 栃木の実家からそう遠くない所だったが、随分とわくわくしてドライブしたのを思い出す。


「描いたのは、しば桜の心ですね」


 和尚様の言葉に唾を飲み込む。

 仄明りが、私の脳髄を駆け巡った。

 まさか、まさかと否定しようと働く。

 だが、小さな紫を認めない訳には行かない。

 あの精霊は私の家にもいる筈だ。


「しば桜……?」


 そのとき、十二月の雪が、ときを滑って舞い降りた。

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