しば桜は愛を謳う

いすみ 静江

序章

第1話 燃ゆる恋

 これは、祖母のフクから聞いた話となる。


櫻絵さえちゃん。おれの大切な想い出だかんな」

「はい。いい子にして、寝ますね」


 ミミちゃん布団をとんとんとされると弱い。

 うとうととして来る。


 ◇◇◇


 しばざくらは、燃える大地に焼かれていた。

 春には、さくらのような小花が、薄く土を飾っていたのに。


『熱い、熱いね。しろ

『ね、しば桜も根絶かな』

『私のような薄桃うすももは、花言葉で〝臆病な心〟と言われるよ。大丈夫かしら』


 薄桃は、火の粉が迫る中、身を震わせる。


『では、白い私の〝忍耐〟で根絶を避けたいと願うわ』


 白は、しば桜の精霊として、人間を守ろうと決めた。

 薄桃も呼応する。


『そうしましょう』

『そうしましょう』


 しば桜が囁き合うも、この火炎はどうにもならなかった。

 大正十二年九月一日、関東かんとう一円を大震災が襲う。

 直ぐさま、火の手が上がり、ありとあらゆる命を引き摺り去った。


「ひいい……!」


 おれは、町屋まちやに居を構えていた。

 独り身で、まだ、旧姓の風間かざまフクだった頃だ。

 おれは、外へ飛び出す。

 お針のお仕事をしており、焼け始めたお屋敷には、お弟子さんが六人暮らしていた。


「逃げるよ! 外も激しい火事だ。何も持たなくていいからね」


 若い娘のお針子さんなど、ここで焼け死んだら哀しくて涙も出ない。

 お針のお師匠さんなのに、唐突のことで、中に誰がいるのかまで把握していなかった。


「おれは悪い人だ。逃げさせて貰うよ」


 おれは、涙を拭う。

 喉が激しく渇くので、一粒の雫も勿体なかった。

 火に囲まれて影一つない中、炎に我が罪深い姿を見た。


「すまねえ、すまないね。おれは、仏様の供養を忘れないからね」


 焼け焦げる中へ分け入り、草履も失いつつ上野うえのを目指す。

 身体では壊れた琴の音色が泣き、心では自らの罪が騒ぎ立てていた。


「田舎のおじやんにおばやん、しんどいだろう。おれはよ、この身一つしか守れなかったよ」


 おれは、脇目も振らずに、火の粉を掻い潜った。


「おれの仕立てた着物も仰山あったよ。駄目になっただろうな」


 ふと、失くした物に郷愁を覚える。

 佇んだのが、いけなかった。

 おれが着ている和服のしば桜文様が、燃えようとしている。


「裾が、裾が! 仏様のお怒りだ。水で消さないとなんねえ」

 

 咄嗟に叩くが、おれの手までも熱い。

 ここ、上野も火傷をして飲み水を欲しがる者が多く、消火用のは望めそうにもなかった。


『いつもお水をありがとう。白よ。土で消しましょう』

「土、土が?」


 おれは、なりふり構わず土に体をぶつけた。

 どうにか着物の火は払え、再び立ち上がる。

 二十二歳のおれには、余りにも酷な光景で、ぎっと瞼を瞑った。

 そして、細く涙を流しながら、天へと目を逸らした。

 こんな風炎の中、空耳に支配される。

 自身を地獄へ引き摺り下ろすのか、はたまた、その逆か。


「風間さん! フクさんですか?」


 絵具で殴り塗ったような火の中を掻き分けて、揺らぎながら近付いて来た。


「おれの名はそうだが? どちらさんで?」


 逃げた禿山に、知り合いなど居ない筈だ。

 でも、名に間違いはない。

 緩やかに燃えるしば桜を踏みつつ進めば、熱さを感じなかった。

 故郷、尋常じんじょう小学校しょうがっこうの知った顔が、頬を焦がしている。


「おれも炎の熱で林檎の頬になった。懐かしいなや。一年上の生原いくはらはじめあんちゃんだろう」

「ああ、僕は尋常じんじょう高等こうとう小学校しょうがっこうを出て、東京とうきょうへ進学したんだ。美術学校が上野にあるんだよ」


 どちらからともなく、お互いの手を握った。

 こんなに逞しいのだから、おれは、仏様だとは思いたくない。


「風間さん、よく生きて。偶然に感謝したいよ」

「お互い命があるのが不思議だな」


 元は、手に力を込めた。


「とにかく、あっちへ。ここは酷い」


 闇雲に突っ走る。

 本当は道などないのに、着物のしば桜が、炎で散り散りに照っていた。


『こっちの道なら〝忍耐〟よ。私達しば桜は、厳しい環境に負けない強さがあるわ』


 おれには、燃える大地から声が聞こえる。

 あれは、町屋で水遣りをしていた赤ちゃん花達。


『帰化植物でも、毎日お世話してくれたご恩があるの。だから、根だけでも生き残ろうね』


 着物も庭先の花を意匠にして絞染にしたものだ。

 元は、誰も見ていないことを確認すると、腰から水筒を出す。


「喉が渇いたろう。好きなだけ飲むといいよ」

「これは、いただけない。生原さんだって必要だろう」

「いいから」


 おれは受け取って逡巡していたが、あまりの熱さに水筒に口を伸ばし、少しだけ傾けた。

 けれども、流れて来ない。

 もう少し傾けても、水はなし。

 仕方なく、垂直に持つ。


「水が沢山あっただろう」

「うん。あったな」

「これで一安心だな。風間さんは、長生きできるよ」


 本当は、一滴もなかった。

 おれは元にこれ以上気を遣わせたくないと初めての嘘を吐き、その訳に胸が締め付けられる。


「生原さんにだって、長生きして欲しい」


 熱い大地に縮れたしば桜の丘に、静かな囁きが残っていた。


『しば桜は死にながら見ているの』


 業火の中、可憐なしば桜がそこだけ一面に咲き始めた。


『新しい命を育む二人を』


 白や薄桃の綺麗な輪が、揺れて、揺れて、さざ波を作る。


「大好きな人。とっても愛してる人って変わらないものだね」

「生原さん、好いた人でもおるのか」

「ええ、近くにね。結婚も考えているよ」

「えがったな」


 おれは、上京して仕事だけに熱意を注いで来た。

 今まで元とは疎遠だったのに、想い出が走馬灯の如く駆け巡る。

 おれは欲張りだ。

 優しい人を手放すのが惜しくなった。


「寂し気な面差しは、風間さんに似合わないよ。笑って欲しい。この大災害から先ず立ち直る。鎮火したら、お互いの家へ行こう」

「おれは、恐ろしくてそんなことできね。お弟子さんの安否も確かめないでここへ来た」


 元は首を縦に振って、おれの肩に手を置いた。

 優し気でありながら、目で人生訓を唱える。


「仕方がないこともあるんだ」

「おれは、仏様に手を合わせねえと」


 ◇◇◇


「もう、九月三日にもなったな。この燻り具合なら、風間さんの家に行けるかも知れない」

「おれも決心した。拝むつもりで屋敷を探そう」


 煤けた顔を二人は着物で拭う。

 この日の昼には、業火も暴れなくなっていた。

 熱い大地とその傷跡を踏みしめて歩む。


「やはり、おれの家辺りは何もなくなっている」

「望みを持とう」


 けたたましい音が聞こえて来た。

 杭でも打ち込むような激しいものもある。


「おれの家が、おれの家が。まさか、新しく建てているのか」

「君達、ここは風間フクさんの土地だが。どういう権利があって家など建てた」


 元は、冷静に所有権を主張した。


「さあ、俺達は旦那様の言うがままにだな」

「そうそう。旦那様に逆らうと怖いぞ」


 元は、嘲り笑われたので、みるみる気分を害した表情になった。


「分かった。背景に男性がいるのだな。名を教えてくれ」


 おれが元の袖を引く。


「おれは、悔しい。でも、生原さんがいてくれたなら、それでいい」

「風間さん。勿体ないお言葉です」


 杭を打ち込む音がする中、おれは小石を積んだ。


「お兄さん方。一度でいいから、ここの仏様に拝ませてくれ」

「げ、気持ち悪いことをするな」

「風間さん、僕も一緒に拝ませて欲しい。同じ被災者として」


 二人は、何も言わずに手を合わせた。


「生原さんは、幼馴染を越えた特別な人になった。おれは、この地震で初めて感じる」

「風間さんのことを小さい頃から可愛いと思ってましたよ」


 まだ、鎮火しても恋の炎は始まったばかりだ。

 二人で頬を染め合いながら、東京とうきょうから栃木とちぎへと去る。

 おれは、生原の実家に身を寄せ、またお針の仕事を始めた。


『しば桜の白と薄桃は、きっとまた芽吹くからね。遠くから祈っています』


 ◇◇◇


 翌、大正十三年に二人は婚姻し、昭和元年に長女を儲ける。


「まあ、おれと同じ右乳房に、しば桜のようなあざがあること」

「フクさんに似たんだよ」


 母となり、初めてのおしめと産着に緊張している。

 赤子が欠伸をして、可愛いと思った。


「あたためていたお名前があるんだ。昭和元年生まれだから、和と書いて、かずちゃんはどうかな。生原和ちゃんだよ」

「おれには、勿体ない。いい娘の名だ」


 お父さんになった元が和の頭をそっと撫でる。

 微笑ましい光景に、おれは、これから何かが起こるとは思わなかった。

 朝焼けの中で産声が高く響く。

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