第48話 パンドラ
私は皆から離れて、一人窓際から母を見つめていた。
「次の面会を楽しみにして欲しいわ。だって、お母さんは娘だって分かるのよね? 本当は」
母は、自分が音痴だからと歌わなかった分、父の背中で、私は歌を覚えて行った。
「ふんふん……」
秋荒ぶ
枯葉の吐息
真昼の迷宮
忘れじの恋
嵐の間に間に
見えぬ明日を
彷徨いて求めし
君の面影
『秋の面影』
作詞、作曲、生原志朗。
「とても子守唄にはならないけれども、今の私には、感じ入る所があるわ」
この歌をしても母に反応がなかった。
物侘しさが沁みて来る。
◇◇◇
――あれは、赤ちゃんを亡くしたときに、パパと家を銀幕に見立てたものだ。
確か、『ヒトミ物語』だった。
主人公、ヒトミが国境なき医師団を取材する中で、治療に当たっていたテントに駆け込む影が映る。
予期せぬ妊娠を強いられ、体と心に傷を負った女性が、宣言する。
『私にも人権があります! 人権があります……!』
そのとき、私は迂闊にも涙を堪えていた。
自分が主張したいことは、人権なのだろうか。
私の瞳に、ヒトミさんが映る中で、考え込んでいた。
「どうしたの? ママがショックだったのは、分かるけれども」
「うん……。私に人権ってあるのかしら」
「あるよ。心配しないで」
項垂れていたら、肩をとんと叩かれた。
この細い指は、美桜緒さんに違いない。
梅芳さんのは、ピアノで鍛えられているから、違うだろう。
「ジンケンって、どんなこと?」
美桜緒さんは、学校でも漢字や用語が苦手だ。
動物や植物が大好きで、いい子なのだけれども。
「仕方ないな、美桜っちは。僕が教えてあげるよ」
「姉ちゃ、大好き」
おお、姉妹で、教え合うとは美しい。
「人が持つ権利ってこと。してもいいとされることだよ」
「流石、姉ちゃなだけあるね。尊敬の眼差しビームしちゃう」
「いやいや、僕もこれ位なら」
中学三年生と一年生か。
大きくなった。
梅芳さんの一人称、僕は、現在進行形だけれども。
本当は、私と呼んで欲しい。
「この子達が、私達の子なのね」
「そうだよ。ママが、どうして人権について悩むんだい」
「あのオトコに蹂躙されたからよ。それに、梅芳さんにも人としての権利があるわ」
パパは私の髪を優しく抱いた。
「あのね、お父さんが現れて、鉄槌を下してくれたようよ」
「確かに、人を人とも思わない行為だね。僕も憎らしいよ。毒蛇の餌食になればいい」
「あにゃ、珍しいわね」
腰で拳を握りしめていたパパの力が肩から抜けて行く。
決意した顔をこちらに向けた。
「生原櫻絵さんは、今、幸せではないの?」
大切なことだからと、もう一度訊かれた。
「生原櫻絵さんは、幸せではないのかとの話」
「――私、生原櫻絵と言う一個人がかしら」
口ごもる音がする。
気に掛けていると、突然、意識の水風船が破裂した。
「櫻絵や……」
後方には、小さくなった母がいた。
「お母さん! 私の名前を呼んだのかしら?」
私は、母の膝に掛かったブランケットに縋る。
母は、まだらに呆けていて、正気なときもあるに違いないと信じているから。
「ねえ、お母さん、もう一度呼んで」
彼女は、黙していた。
「私はね、生原櫻絵です」
母の肩に私の白いストールを掛けた。
そして、車椅子を回転させる。
しば桜がよく見える大きな窓へ母を向ける為だ。
「渡瀬志朗と生原さくらは、しば桜の綺麗な所で出逢ったと聞きます」
今日は、風が強いのかも知れない。
外で、しば桜が舞い続けていたから。
「二人の間に生まれた、櫻絵と申します」
後ろから、母をぎゅっと抱き締めた。
「――櫻絵ちゃんなのよ? 分かるわよね。ミミちゃん大好き櫻絵ちゃんよ」
ホームに預けたままにはしない。
「時折、四季を問わず、必ず会いに来ます……」
母が快適に暮らせると思っての苦渋の決断だ。
「ママ、僕だよ」
「母上、僕も来ました」
「美桜っちもいるよ。ママ」
家族四人が集まって、蒸すように母を囲んだ。
しば桜は、呟こうとはしなかった。
ただ、真実のみを花散る嵐の中に映す。
私にも感じられた。
しば桜の中に佇む男性。
それは、母が思い描く志朗お父さんでもない。
母が勘違いした太田総一郎氏でもない。
「私にとって、広大なしば桜の中、木を背に物静かに本を読む姿が見えるの。それは、誰あろう、貴方よ」
思いっ切り目力で語った。
「ぼ、僕? まるで、ママの王子様みたいだな」
「やーだー! パパしかいませんって。もう、もう、もう」
辛かったことは、過ぎ去ったことだ。
私には、今がある。
そして、未来の明るい展望も、パンドラの箱を開けてみると、子ども達に姿を変えているに違いない。
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