第26話 唇を奪われたら噛みましょう


 おとりのリックが狙撃された時、女は自分の近くにいた。


 女が離れてから撃ったということは、女を救出しに来たと考えるのが自然だ。


 リックを確実に殺し、女が逃げやすくなるようにする。


 ところがである。リックは死なず、女はリックを助けて、しかも狙撃手が立ち去ったか、自らの命を掛けて確認をした。


 わけが分からない。


 そして、今、女は弾がどこにあるか探している。弾丸から足がつくのは、よくある話だ。


(誰が撃ったのか知らないのか……女を助けるわけでも、消すわけでもない銃撃。昨日の抗争の一味か? しかし、なぜ、この場所が分かったんだ……)


 トーイの部屋にいた連中の中に内通者ないつうしゃがいたのかもしれない。しかし、ここにアイスを買いに来るとは話していなかった。そして、隠れて連絡する時間もなかったはずだった。


 内通者がいると想定しても女の行動は意味が分からない。


 アッシュは謎の女が、弾が飛んで来た方向をチラチラと確認しながらリックの手当てを始めたのを見て、車のドアを開けた。


 どこから放たれたのか知る必要があると思ったからなのだが、すぐに後悔することになる。


 女が手を差し出して、来るなと制止する。その次の瞬間、サイドミラーがバキンッと聞き慣れない音を立てて、ぶらりとぶら下がった。


(え?)


 アッシュが状況判断するよりも早く、ミン・ジウは反応した。


「出てはいけない!」


 そう叫びながら、運転席から降りようと片足を地面につくアッシュにタックルをして、一緒に倒れ込むように運転席に押し込んだ。


 サイドブレーキに背中を打ち付け、アッシュはミン・ジウの体重を支えることもできない。


「痛てー! 退けよ!」


 謎の女を胸に抱えて、アッシュは苦痛に顔を歪めた。


 それを見たミン・ジウは顔色を変える。


「撃たれましたか⁈」

「ちがっ。重いんだよ!」

「失礼な」

「冗談言ってる場合かっ」


 ミン・ジウは、アッシュの胸に横たわったまま、頭を上げた。


「どうやら私は標的ではないようです。でも、リックは撃たれた。あなたも当然、まとになっていると考えるべきです」

「お前の仲間か⁈」

「はい?」


 なるほど、アッシュはそれを知りたいが為にパシリに着いて来たのかと、やっとに落ちた。


「リックをおとりにして……ひどいNo.2ですね」


 ミン・ジウは薄ら笑いを浮かべ、肘で体を支えながら、アッシュが頭を上げた瞬間に耳を撃ち落とされかねないからと、車内が建物の死角になっているか辺りを確認する。


 アッシュはそんな謎の女を見上げていた。


 美人だとは思っていたが、こうして間近に見ると、たいして美しくもないのに腰をくねらせて色目を向けてくる女どもとは、比べ物にならない神々しさがあった。


 古代エジプトの女神、イシスが思い浮かぶ。


 赤ん坊の頬を触りたくなる人の本能のように、日焼けした、それでいて、キメの細かさを失っていない肌に触れたくなる。


 面倒な女とは関係を持たない主義だった。


 泣きわめく女。逆恨みする女。一度ヤっただけで女房顔する女にもうんざりだった。


 では、謎の女は?


 たった今、狙撃された事実が頭と体を興奮させているのだろう。そうでなければ、真っ昼間の路上で欲情するはずがない。


 思わず女の背に回した腕に力を入れる。


「あなたは車から降りない方がいい。私がリックを車に乗せて運転します。帰りましょう」


 ミン・ジウは起きあがろうとして、腕の強さに気がつく。


「アッシュ? ここは死角になっています。頭を下げて運転すれば狙撃される心配は……」


 言いかけて、アッシュに頭を押さえられる。


 鼻がすれ違い、唇が重なった。


 ミン・ジウはとっさにり、唇は一瞬離れたかと見えたがアッシュは女の髪の中に手を入れて頭を離さなかった。


「やめ……」


 息だけが漏れて声にならない。アッシュは問答無用で顔を傾け、唇を奪い続けた。


(なぜに突然⁈ いや、昼間だし。車の中だし。血塗れのリックがそこにいるし)


 ミン・ジウは男の性衝動は理解できないと思いつつ、しかし、もっと違うシチュエーションなら考えてあげても良かったのにと、残念な気持ちになる。


 出産して5年。息子の父親とは良い友人関係であり、アッチの方はすっかりご無沙汰していた。


 アッシュのスーツの趣味も車の趣味も好みだが、なにしろ状況が悪すぎる。


 唇を奪われたまま、さて、どうしようかと考える。


 男の上に位置してマウントを取っているとはいえ、狭い車内で身動きが取れない。


 足で下半身を挟まれ、腕は自分と男の間に入れることができない。頭を押さえつけられている今、有効な武器は一つだけ。


 ミン・ジウは唇を少し開き、男の唇を受け入れた。

  

 唯一の武器である “歯” を使って男に傷を与えようと下唇に歯をあてる。


 顎の筋肉に力を入れたその瞬間、男は頭を解放した。


 気付かれたかと、舌打ちをしたのもつか、アッシュから出た言葉は意外なものだった。


「すまん」


 そう言ってミン・ジウの体を押し離す。


 腰を曲げて運転席から出たミン・ジウは、やはり起き上がり、シートでスーツのシワを伸ばすアッシュの耳が真っ赤になっていると驚いた。

  

 アッシュは唇を手の甲で拭き、気まずそうにチラリとミン・ジウに目を上げる。


「すまん」


 もう一度、ぼそりと口の中でつぶやき、ドアを閉めようと手を伸ばした。


 ミン・ジウは体を引いて車から離れる。


 割れたサイドミラーをぶら下げたまま、アッシュはバタンとドアを閉め、タイヤを鳴らして走り去った。


 ミン・ジウは、その初々しく頬を赤く染める残像を見ながら、呆然とする。


(なに、あの反応。すまん⁈ こっちが恥ずかしいんですけど!)


 アッシュの耳よりも赤くなる顔面に手を当てる。


 すると、視界にチラチラと瞬く光が入った。


 光の出どころを探して見上げると、山の中腹ちゅうふくからの反射光だった。


(ライフルか……わざと光らせて威嚇している?)


 撃たれてはかなわないので、その場から離れる。


  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る