第29話 勘違い男
誰もいないリビングの一角でアッシュは立ち止まる。
ミン・ジウは、銃撃してきた連中に心当たりはないが、自分が標的にならなかった理由には思い当たっていた。
(代表だ……)
彼しかいない。
韓国から息子のベビーシッターを操っているように、こちらのスナイパーを雇ったに違いない。
(そして、私といる相手を敵とみなして……ということは、このアジトもすでに把握して見張っている……ん? 外に出るのを待っていたのはなぜだ? )
代表の性格なら、とっとと全員射殺命令を出して、助けてやったぞと、恩着せがましく言ってきてもおかしくはない。
ついでに、命の恩人に礼をしろ。お前の息子でケケケー! と、高笑いする姿が目に浮かぶ。
(あの光のモールス信号……あれは、何と言っていたのか……?)
ミン・ジウは顔をアッシュに向けながらも頭の中の光の点滅を数えていた。
アッシュは、自分と
女の唇に目が行く。
あの時、女は驚きつつも唇を開いてきたとアッシュはとても大きな勘違いをしていた。
実は、アッシュは素人の女と付き合った経験がない。いや、恋人はいたのだが、皆、組織を牛耳る男に惹かれて近寄って来た女ばかりだった。
だから、拒否されたことがなかった。
アッシュが食指を伸ばせば、いつでも女達は多少は戸惑いつつも、唇も足も簡単に開いてみせた。
恋人と呼べる女性がいた時の方が、女には不自由しなかった。むしろ、その時の方が、なぜだか女どもの奉仕が濃厚だった。
他の女を愛している男を寝取るということは、
だから言い寄られて面倒だと思えばあしらうし、ヤリたいと思えばヤった。
女心を理解しないアッシュは、なぜだか、いつもあっさりと恋人に浮気がバレ、引っ叩かれて終わりになるパターンを不思議に思いながら繰り返していた。
なので、目の前の謎の女も、あの状況で思わず伸ばした食指に反応したのだと思っていた。
さすがに真っ昼間の車中で、しかも通報されるのは時間の問題の中で性的興奮を覚えた自分をガキかと恥じた。
『すまん』は、キスに対してではなく、その気にさせたのに『すまん』という意味だった。
ただものではない謎の女を味わいたい。
一見、スマートなサムライ魂の持ち主も、中身は健康で、そして本気で誰かを愛したことのない無垢なただの男子だった。
何度、思い返しても光のモールス信号の意味が分からない。
(ヘリオグラフなんて何年振りに見ただろ……あー、もう、普通に伝書鳩とかにしてよー)
伝書鳩を普通と思ってしまうほど、ミン・ジウの脳は疲れていた。
ただでさえ息子とその父親の存在を隠し通さなくてはならない状況で、当然、自分の身元が割れることもあってはならない。
そこへ来て、今回の銃撃だ。
(代表のことも誤魔化さなくちゃならなくなったじゃーん。本当、迷惑ー)
代表の意図が分からない以上、アッシュになんと説明すれば良いのか見当も付かない。
アッシュは黙り込み、あきらかに無言で答えを迫っている。
(困ったなぁ)
小さな
(困った? そうか、男の俺から言わなければ困ってしまうのか)
2人きりになれば自然とその気になる女ばかりを相手にして来たので、やはり謎の女は面白いと舌を舐める。
「おい。さきほどの一件だが……なにがどうして、ああなったのか知りたくはないか?」
アッシュはキスの一件を言い、ミン・ジウは銃撃の一件だととった。
「なにがどうしてと言われても……私も突然のことで、戸惑っています」
「ああ、そうだよな。俺も驚いた」
「驚いたって……分かってて付いて来たのでしょ?」
「お前は分かっていたのか?」
「そりゃあ、別の車で来たり……危険なのかなぁとは、薄々……」
「ああ、危険だったな。あそこでは……危なかった」
「まあ、住人に通報されていたかもしれませんしね」
「それは……恥ずかしいな」
(ん? 恥ずかしい?)
ミン・ジウはなんとなくアッシュと話が噛み合っていないと気が付いた。
アッシュをよく見ると、瞳に熱を帯びている。そわそわと落ち着きなく、そして少しずつ近づいて来ていた。
ミン・ジウは男のそのような仕草に幾度となく出会っていた。
始めは、照れたように控えめに。そして、少しずつ距離を縮めて手を伸ばしてくる。
男の熟練度によって、その手が頬に伸びて来ることもあれば腰を引き寄せられることもある。
手が伸びて来てからでは、男のソレはすでに後戻りができない状況になっていると、嫌というほど経験していた。
ミン・ジウはアッシュから手の届かない位置まで
それを、勘違いアッシュは女が物影に移動していると、さらに勘違いを重ねて下半身を熱くする。
目を細めて口角をゆるく上げ、肩を揺らして謎の女に近づいた。
(うわ、こいつ!)
トラブルは、本当に男の性衝動は理解できないと頭を振りながら、勘違い男を手を上げて制止した。
「なんだ」
「なんだでは、ありません。それ以上、近寄らないで下さい」
「なぜだ」
「なぜって! 嫌だからです!」
「ここか? それとも俺がか?」
若くしてNo.2と、言わしめるだけのことはあり、自信に満ちたその顔は、まさか“俺”だとは、みじんも思っていない。
どちらかというと好みのタイプだけれどと、久しくご無沙汰のミン・ジウは、一瞬、返事が遅れる。
それを、その気になっている男は完全に勘違いをした。
「そうだな。もうすぐ親父達が帰ってくる……トーイはともかく、スレイポウに気づかれるとマズイな」
なぜ、トーイには良いのか分からないが、未成年には見せられない。
(いや、見せるつもりはないけど! ってか、近寄ってくんな!)
ゴンッと壁に頭を打ちつけ、壁に沿って横へ逃げる。
自信満々の勘違いアッシュは、うむと、顎に手を当てた。
「なるほど……それも一興だな」
え、なにが? と、キョトンとするミン・ジウの脇に手をやり、背後のガラス戸を開けた。
急に背中を支えていたドアが開き、ミン・ジウは、うわっと、後ろにひっくり返る。
したたかに背中を打ち付け、見回したその部屋は、部屋ではなかった。
開放的な1枚ガラスが壁一面に張られ、強い日差しが真っ白なタイルを光らせている。ガラス窓からは庭が眺められ、緑の芝生の中のプールが一望できた。
(うわ〜、素敵なバスルーム……って、そんな場合ではない!)
ミン・ジウは慌てて、立ち上がる。
「確かにここなら誰にも知られない」
アッシュのその言い方に、ミン・ジウはスレイポウが未成年だからなのではなく、ボスの娘だからマズイと言ったことに気が付いた。
スレイポウは兄のトーイよりも、アッシュを推している。そのスレイポウに毛嫌いされるわけにはいかないのだ。
(ふーん、その辺の女心は理解しているのねー)
思わず、このままアッシュに抱かれてスレイポウにバラしてやろうかと思う。そうすれば、追い出され、晴れて家路につけるなどと考えてしまう。
そんな
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