第27話 ベビーシッター


 血塗れだが意外と軽症なリックは、さきほどの銃声はなにごとかと仰ぎ見る。


 ミン・ジウは赤い頬を隠しながら、アッシュの車が狙撃されたと告げた。


「アッシュも⁈ 敵は誰なんだ⁈ 狙いは⁈」

「分かりません。サイドミラーを撃たれただけで無傷なのでアッシュは大丈夫です。私達も帰りましょう」

「あ、ああ……」


 リックを後部座席に座らせ、運転席に回り込む。


 エンジンを掛けたところで、再び、チラチラとライフルの反射光が目に入った。


(うっとおしい……)


 ミン・ジウはサンバイザーをむんずと下げて、車を発進させた。







 韓国で芸能事務所を営む代表は、待ちわびた国際電話に声を荒げていた。


「逃げなかった⁈ どういうことだ⁈」


 バタンと乱暴に執務室のドアを閉め、声が漏れるのを防ぐ。


「はぁ⁈ ヘリオグラフ(太陽光発光信号)に気付かなかった⁈ 本当か⁈ ……なんてこった。そこまでなまくらになりやがったか……」


 電話の相手はカンボジアで活動させている諜報員……いや、ベビーシッターだった。


 優秀な彼女は、クラブの銃撃戦とともに失踪していた母親を数時間で見つけ出していた。


 まずはケガ人が搬送された病院で、知り合いが巻き込まれたフリをして聞き込みを行った。


 すると、自分の腕を撃った見知らぬ女が、なぜか止血の方法を教えて車で逃げ去ったという男の話を聞くことができた。


 ベビーシッターは子供の母親だとピンと来る。


 詳しく話を聞くと、その女は相手のギャングのボスの車に、そのボスの息子とその組織のNo.2を乗せて逃げたと言う。


(死体とケガ人2人……)


 すぐに近くの病院をあたるが、身体特徴が一致する死体もケガ人の存在もなかった。


 警察無線を傍受していた仲間が、ギャングのボスの死体が道端に捨てられているのが発見されたと、報告をよこした。


 そして、住宅街のカーチェイスの通報も。


 なるほど、邪魔な死体を捨てたということは車体を軽くする必要があったのかと推理した。


 カーチェイスの進行方向の病院に目星をつける。


 しかし、深夜に銃で撃たれた傷を持つ者が現れれば、医師は通報するはずだ。


 地図上にある病院はすべて、通常通り開院していた。念のために調べた動物病院もしかりだった。


(医者を人質にして治療をさせているかと思ったが……)


 ベビーシッターの仕事を請負ったさい、子供の母親は代表が直接仕込んだスキルを持っていると聞いていた。


 化粧っ気のないこの美人のどこにそんなスキルがあるのか最初は分からなかったが、そのうち、なんの気配もなく背後から声を掛けられて心臓が止まりそうなほど飛び上がることが度々あり、注意深く母親を観察するようになった。


 ゴミ箱にゴミを投げ捨てる時は百発百中で、子供が物を放り投げた時は床のギリギリで必ずキャッチする。


 階段を下る足音がいつもより遅いが体調が悪いのかと聞かれたこともあった。


 恐ろしく勘が鋭く、そして身体能力がずば抜けている。


 代表仕込みの母親が、ケガ人を捨てて戻らない理由は分からないが、恐らく自らが治療にあたっていると踏んだ。


 範囲を広げ、比較的最近、閉鎖になった病院をリサーチする。


 すると、少しカーチェイスの進路から外れるが、廃業した動物病院を見つけた。


 そして、その建物のかげに銃弾で穴だらけになった車も。


 運転席の血液のあとはき取られているが、ぬぐいきれない匂いに母親の安否が不安になる。


 仲間数人を召集して乗り込むと、すでにもぬけの殻だったが、確かに誰かがいた形跡があった。犬用の薬やガーゼが散乱している。


「……やはり、ここで治療を」


 仲間が異を唱えた。


「ここでは止血しただけだろう。見ろ、点滴と抗生剤のアンプル。この出血量なら縫おうとしたはずだが、縫合針と糸が見当たらない。朝を待って仲間と合流し、車を乗り換えて移動したな」

「いったい、どこに……この辺りはクロサーの縄張り……」


 “クロサー”


 それは、クメール語で家族を表す名を持つ、ギャングの縄張りに入っているとベビーシッターは把握していた。


 地元の自警団から発生した、不良少年が中心の比較的新しい組織だと記憶している。


(ボスが死に、その息子が負傷している。No.2が次のボスを殺そうとして、それを止めたのか? 一緒に消された? いや、見ず知らずの女の遺体を隠す必要はない。それこそ銃撃戦に巻き込まれたとして、あの場に捨て置くのが1番のはずだ)


 ベビーシッターは、母親は生きていると確信した。

 

(次期ボスが重症でNo.2が軽症。No.2が治療の為に母親を拉致したと見るのが自然だ。では、次の行先は?)


 ベビーシッターは仲間からの情報を待った。


 その間に、信頼できる人間に預けた子供の様子を確認する。


 電話の向こうの天使は、遊園地に連れて行ってもらっているらしく、にぎやかな雑踏の中で元気な声を聞かせてくれた。


 ベビーシッターはホッと胸を撫で下ろして、いい子で待っているように伝える。


「うん! くゆくゆくるくるまわりゅまわるやちゅやつ、のってきてね! おごと、かんばってね!」


 可愛い。なにを言っているのか、8割方、分からないが可愛すぎる。


 特に子供好きではないが、通話を切ってからも下がった目尻が戻らない。


 赤ん坊の時から面倒を見ているひいき目を取り除いても、この子は群を抜いて可愛い顔をしていると思う。


 少し、引っ込み思案な性格は母性をくすぐり、しかし、頑張り屋さんな一面は無条件で応援したくなる。


 代表に動画を送るたびに、傷モノにするなよ、俺が仕込んで高値で売るのだからとよだれすすりながら念を押され、思わず変態に引き渡して良いものかと、自問自答してしまったこともある。


 韓国陸軍時代に伝説の人物として耳に入っていた代表に雇われた時は、正直言って、尾ひれのついた伝説で眉唾まゆつばだと感じた。しかし、一緒に仕事をすればするほど、その人望の厚さが伝説なのだと気が付いた。


 過去に自分を雇った人物達とは比べ物にならないほど、人心をつかむのが上手い。


 本人は金儲け以外に興味はないと言い切るが、彼を知る者の中に、そんな戯言ざれごとを信じる者はいないだろう。


 しかし、いまだ行方の分からない母親は違った。


 あきらかに代表を警戒している。


 本来の仕事とは逸脱したベビーシッターの依頼が来た時、初めは愛人と隠し子を守るのが目的だと思っていた。しかし、父親は代表ではなく、2人がどの様な関係なのかは知らされていない。


 母親は、代表に定期的に入れることになっている報告のタイミングをすぐに見抜き、その時期が近づくと子供を遠ざけた。


 報告は母親の目を盗んで行うほかなかった。


 しかし、母親は普段の世話は遠ざけることはしなかった。今回のように家を開ける時は子供を任せてくれる。


 母親の信頼を勝ち取ることができたと言えば聞こえはいいが、そうではないと感じていた。


 代表への警戒心は、命を奪われる恐怖ではなく、利用されることへ働いていると最近になって気が付いた。


 人心掌握術にたけた代表が、唯一、掌握できない人物。


 2人の関係は聞かされていないが、お互いにうとんじながらも一目置いているとの印象は、あながち外れていないだろう。


 仲間を休憩させながら、そんなことを考えていると、地元に詳しい情報屋から一報が入った。

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