第12話 死にかけのヤブ医者


 エアコンの効いた車の心地よい揺れに、寝不足の右脳は少し眠れと指令を出すが、左脳は外の景色に注意して方角を失うなと警鐘を鳴らす。


 シートに頭をもたれさせ、薄っすらと目を開け、流れる景色の中に目立つ建物があれば記憶して、頭の中で地図を描き続けた。


 プノンペン郊外の赤茶けた建物の密集した貧しい住宅街で車は停まった。


 打ち水をする気の利いた住民もおらず、街路樹はしなびて木陰を作る気力も残っていない。


 男達は、太陽に焼かれた土よりも赤い顔をしたトーイを、かろうじてクリニックの文字が読み取れるガラス扉を開けて慣れた様子で運び込んだ。


「ヤブ医者ー。どこだー。仕事だぞー」

「いないぞ。寝てんのか?」

「トーイをそこに寝かそう」


 トーイを診察台に横たわらせる男達を尻目に、ミン・ジウは診療所内を見回す。


 掃除は行き届いていないが空調が効き、待合室の椅子は埃をかぶっていなかった。


(貧民街の赤ひげ診療所ってとこか……)


 カーテンで仕切られただけの診察室にはカルテらしい物も乱雑に積み上げられている。


 ミミズがったような文字はドイツ語にもクメール語にも見えた。


(一応、診察はしているのか。これは本人が読み返しても判読は難しそうだ)


 医師の文字の汚さは万国共通なのかと失笑しながら、処置台から体温計を探し出した。


 トーイの熱を測る。


 ミン・ジウは、はなから薬物中毒の医師を頼りにしていなかったので遠慮なくトーイの治療に必要な医薬品を探し回った。

 

 その時、金髪男きんぱつおとこの1人が叫び声を上げた。


「来てくれ! ヤブが死んでるぞ!」

「なに⁈ 」


 男達が奥の一室に集まった。


 ミン・ジウも、今は生活感満載になってしまっている院長室だったであろう部屋をのぞく。


 そこには、ひげが伸び放題でガリガリに痩せた老人が仰向けで倒れていた。


「あーあ。じいさんのれのてか」

  

 アッシュがヤブ医者を足でつついた。


 すると息を吹き返す。いや、正確には死んではいなかった。胸が浅く上下している。


 しかし、その顔色は土色つちいろと言っても過言ではなく、よだれを垂らし白目をいていた。

 

 その医者の周りには医療用のコカインが散乱している。


(過剰摂取! コカインのりすぎで呼吸抑制をきたしている!)


 ミン・ジウの体は考えるよりも早く反応した。


 老人の腕を取り脈を測る。まぶたを上げて瞳孔を確認した。胸元を叩いて大声で呼び、意識があることを確認してから薬物の血中濃度を下げる為の点滴を探す。


「何をしているんだ⁈」


 アッシュがけわしい声をあげた。


「点滴をします。尿失禁をしているので腎機能は悪くないはず。そこの酸素ボンベを取って下さい。あなたは血圧計を探して。あなたは、こうやって顎を持ち上げていて下さい。気道確保をします」

「そんな事はどうでもいい! あんたは坊っちゃんを治療するんだ! そんなじじい放っておけ!」

「この方のほうが重症です。今にも心臓が止まりそうです」

「坊っちゃんを優先させろ! ヤブ医者なんか捨てておけ!」


 この素人しろうとがと、ミン・ジウは頭にきた。


 決して同じ医療従事者だからかばうわけではないが、この医師に世話になった者は、少なからずこの中にもいるはずだ。


 ミン・ジウは怒りを抑えてNo.2 のアッシュに向き合う。


「もちろん、坊っちゃんの治療にもあたります。しかし、今はこの方を優先させます」

「そんな事は許さない」


 アッシュは銃口を向ける。


 ミン・ジウは毅然きぜんとした態度で言い返した。


「そんな脅しは通じないと知っているでしょう。あなたの許可は必要ない。私は私の仕事をします」

「なんだと⁈」


「それに…… 」と、ミン・ジウが言いかけた時に見たモノは、アッシュが振り下ろした銃のグリップだった。


 驚く間もなく、ガツンッと強い衝撃をこめかみに感じ、上下の感覚がなくなって床に倒れ込む。


「坊っちゃんを治せと言っているんだ!」


 手が届くほど近くにいるはずのアッシュの声が遠く聞こえる。


 熱いこめかみに手をやるとヌルッとした体温を感じた。


 銃で殴られ、切れた皮膚からは赤黒い血液が流れ出ている。


 手を濡らすその自分の血を見る。


(お、正常な色だ)


 慢性的な貧血に悩まされていたミン・ジウは傷を押さえながら思わずニヤリと頬を上げた。


 殴られた女が笑うなど誰が想像できただろうか。


 殴った本人アッシュはもちろん、その場を目撃した男達は得体の知れないモノを見るように凍り付いた。


 ミン・ジウはゆらりと起き上がり、こめかみを押さえたまま院長室を出る。


 坊っちゃんに付いていた金髪の男達はギョッとして、顔から血を流す女をただ目で追った。


 ミン・ジウはくすんだ鏡の前でガーゼをあてて止血をする。傷は、見た目の出血の多さよりは比較的小さかった。


 そのままガーゼをテープで固定してから手を洗う。


(さてと……)


 白目をいたままの医師の元に戻る。


 男達の視線を無視して、痩せ細った医師の腕に血管を探し、針をさして点滴を開始した。


 正体不明の女と一夜を共にしたアッシュは、その振る舞いに言葉も出ない。


 アッシュ派であろう男が裏返った声で沈黙を破った。


「て、てめぇ! No.2 の言う事が聞けないのか!」


 こめかみの傷から再び出血しないように押さえながら、ミン・ジウは大声で一気に言い返す。


「聞いていますよ! 2人とも助けるって言ってるでしょ! そこの、あんた! 血圧計は見つけたの⁈ あんたも! 酸素ボンベを取れと聞こえなかった⁈ 顎を上げて気道確保をやり続けなさい! 少しでも先生に恩のある人は、今、返す時ですよ!」


 アッシュ派なだけの事はあり、サムライに似た美学を持っている男達は、皆、幼い頃にヤブ医者に世話になったと思い出した。


 兄貴分のアッシュの意向に逆らい、始めて会った、名前も知らない女の指示に従い始める。


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