第十一話(三) 雨が上がるまで待って

   『雨が上がるまで待って』


 雨の効果音。この物語は、雨の夜の会話劇である。

 舞台の上手(詩織から見て右側)で、傘原(妃)が片膝を立てながら座っている。

 雨の音が徐々に小さくなってゆく。

 傘原は前後に身体を揺らしながら、英語の歌を口ずさんでいる。

 雨の日になると君のことを思い出す、そういったニュアンスの失恋歌だった。

 傘原が気怠げに過ごしていると、舞台の下手(詩織から見て左側)から、

「ただいま~」と、雨宮(めかぶ)が登場してきた。

 足元が覚束ないのは、酔っているからだった。

「あは、あはは」と調子外れに笑いながら、傘原の前にぺたりと座り込む。

 歌を止めて、傘原は顔を上げた。「おかえり」 

「たっだいま! 疲れたよ~。ようやくあの仕事終わった」

「おめでとう。今日は打ち上げだったんだね」

「そうだよ。あれ? 昼にライン送ったよね?」

「ごめん。それ見てないわ。一昨日からスマホの充電してなかった」

「あー、通りでずっと未読のままだと思った。もう、そういう子にはハグです、ハグ。ハグを要求します!」

「ずいぶん飲んだみたいだね」

「えへへ、だって三ヶ月ずっと仕事漬けだったんだもん。今夜の解放感はね、本当に凄いよ」

「耳が痛いな」傘原は苦笑いを浮かべた。「年中ぷー子の私には、労働者の気持ちはよく分からない」

「いいの。由佳ちゃんは天使だから、汚れた世界で心をすり減らすことないから。私がずーーっと養ってあげる」

 雨宮は傘原にぎゅっと抱きついた。

「何杯飲んだの?」

「何杯飲んだと思う?」

「さぁ」傘原は適当に流して、チラと振り返った。舞台上には時計があるらしく「まだ十時じゃん」と言った。

「もう少し遊んでくればよかったのに。大仕事の打ち上げだったんでしょ? 二次会とかなかったの?」

「あったけど、お誘い断っちゃった」

「もったいない」

「だって、早く帰りたかったんだもん」

「早く帰ってきたってなにもすることないのに。愛想のない居候と夜通しお話でもするつもり?」

「それいいかも」

 あは、と声に出す雨宮に、傘原は言葉を返さない。

「できたら、添い寝しながら……」

 と言ったところで、雨宮は傘原に見つめられていることに気づいた。無言で見つめられているうちに、雨宮の目が泳ぎ出してくる。

「ごめん。ちょっと調子に乗っちゃった」

「そんなことない」と言いつつも、傘原はちゃんとした笑顔をまだ見せていない。

「……あの、頭を撫でてくれないかな? 私、今回のお仕事一生懸命頑張ったからさ、打ち上げなんかよりもご褒美に由佳ちゃんに頭撫でてほしいの。……駄目?」

「お安い御用だけど……こんな感じ?」

 傘原が雨宮の頭を撫でる。

 傘原にたっぷり甘えた雨宮は、その流れで

「明日お出かけしない?」と同居人を外出に誘った。「久しぶりに土日連休だからさ、海沿いの道をドライブするとか水族館でぷかぷか浮いているクラゲに癒やされるとか、どう?」

「理穂がそうしたいならいいけど、この前、新しいブラウスがほしいとか言ってなかったっけ?」

「あー、そんなことも言ったような、言ってないような」

 自分の発言を覚えているようで、雨宮はとぼけ切れずにいた。

「でも別にいいよ。服なんていつでも買えるし」

「そう。なら、その二つなら水族館がいいかな」

「うん! 私も水族館がいいと思ってた」

 傘原は遠出にいまひとつノリ気でないようだったが、居候なので家主の誘いを渋々承諾した、そんな風に見える。

 ただ、行き先が決まったあと、傘原が黙りしていたので、

「……私、はしゃぎすぎかな?」

 雨宮は相手の様子を敏感に察して、遠慮がちに訊ねた。

「そんなことないよ」

「変なこと言っちゃった?」

「それもない」

「嫌いになっちゃった?」

「理穂を嫌いになるわけがないよ」

「重い?」

「ちょっと」

「ごめん」

 雨宮は謝り、傘原は息をついた。

「理穂、私達の関係って行き止まりだよ」

 言葉の温度がさらに下がり、雨宮は息を呑んだ。

「理穂が求めているもの、私は形でしかあげられないよ。理穂が望むならキスするし、耳たぶの甘噛みも、それ以上のことだって。

 でもね、心を百パーセントあげることは絶対にできないと思う。これはね、好意の問題じゃなくて、なんだろう、人としてもっと根本的な問題。傘原由佳はね、情が薄いんだ」

「そんなことないよ」と雨宮は想い人の膝に縋りついた。

 押し返すことはなかったが、「私、理穂のいい人にはなれない」と傘原は首を振った。

「私はこれまで何度も何度もかけがえのない人達に後ろ足で砂かけるようなことをしてきたから」

「由佳ちゃん……そんな自分、嫌いじゃ、ないんでしょ?」

 口笛でも吹かんばかりに、「よく分かってるね」

「そういうこと。綺麗な思い出を数えているよりも、自分の嫌なところを数えているほうが慰められる夜だってたまにはあるんだよ。もしかしたら、そんな夜に浸りたくて同じようなこと繰り返しているのかもね」

「そんなの不健全だよ!」雨宮は初めて大きな声をあげた。

 傘原がふっと笑うと、

「分からないよ」と雨宮はそのままかぶりを振った。

「私ならずっと変わらない幸せをあげられるのに。由佳ちゃんが不安になって、暗いこと考える暇なんてないぐらい、ずっと変わらない幸せを」

「だからね、そういうことじゃないんだよ」

 諭すように、柔らかな声で言った。

「ごちゃごちゃ言ったけど、ようは傘原由佳って人間は、一つの場所に根を下ろす生きかたを知らないんだよ。……これ以上幸せを噛み締めたら、私が私でなくなっちゃう。それだけはたしか。だから行くの」

「そんな勝手だよ……」

「最後までワガママでごめんね」そう謝りながらも、傘原は荷物を既にまとめていることを、雨宮に淡々と告げた。「行き倒れ同然だった私に、とても優しくしてくれたのに」

 ずっと我慢していた雨宮は、とうとう泣き始めた。

「私は、どんな由佳ちゃんでも愛せるのに……」

「理穂ならそうかもしれないね。……でも私は行く。いつかまた会えたらいいね」

「心にもないこと言わないでよ!」

 雨宮は泣きじゃくりながら、相手の胸をポカポカ叩いた。

「ごめんね」

 その一言がすべてだった。彼女の心はもう、雨宮から離れ、明日のことを考え始めている。

「ねぇ、由佳ちゃん」

「ん」

「お願い。出て行くとしても、なにも言わずにふらっと出て行かないでね」

「……分かってる。出て行くときは、理穂にちゃんとさよならを言ってからにする」

「嘘つき」声が涙で震えていた。

「どうしようもないよね」自嘲しているようにも、救いようのない自分を本気で悲しんでいるようにも見える。どちらだろうか。

「でも、これだけは約束して」

 雨宮は傘原の肩にもたれかかって言った。

「雨が、雨が上がるまでは、待ってね」

 泣きじゃくる雨宮を傘原は見守っている。

「うん。待つよ。雨が上がるまでは……」

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