第一章 着想

第一話(一)

 まず彼に見つかった。

 それは、中学生活最後の夏休みが明けて一週間、高校受験に向けてようやく気が引き締まってきた矢先の出来事だった。

 痩せっぽちで吊り目の少女――柳間詩織やなぎましおりは、朝の女子トイレにこもりながら手紙を読んでいた。


   三年二組 柳間詩織さんへ


 今日の放課後 屋上へ来てくれませんか

 大事な話があります            


   三年五組 二階堂文雄


 こういったものを貰った経験がなくても、これが思春期の少女を困らせる類の手紙であることは分かる。

 二階堂文雄にかいどうふみおという男子生徒のことは知らない。さらに二組と五組では校舎が別だというのに、一体どういった経緯で自分に興味を持ったのか。

 下唇を触ったり、肩にかかるようになってきた髪を頻りに触っているうちに、ホームルーム五分前のチャイムが鳴った。

 個室を出ると、クラスの女の子が二人連れでトイレに入ってきた。彼女達とはお互いに相手の顔を見ただけで、「おはよう」の一言さえ交わさない。すれ違いざまにクスクス笑いが聞こえてきても、いまに始まったことではないので、いちいち振り向きはしない。

(それにしても、この手紙どうしようか)

 新たな悩みが増えそうな気がしてならない。その勘は当たっていた。


★★★★★★


 午前の授業、一人で問題集を解く昼休み、午後の授業。いつも通りの一日を終えた詩織は、放課後、二階堂文雄が待つ屋上へと行くことにした。

 断る前提なので気が重いが、断るなら断るで相手の目を見てきっぱり断るべきだろう。物好きな男子生徒をひと目見たいという気持ちもなくはなかった。

 肩で押すようにしてドアを開けると、彼は既にいた。

 フェンスの金網に背中を預けながら空を見上げている、背の高い男子生徒。

 釣られて空を見上げると、丁度飛行機が飛んでいた。定規を当てて描いたような飛行機雲が茜色の空を気持ちよく横切っている。

(綺麗だな)とつかの間見惚れていたら、ぬっと影が落ちてきた。

「お、待ってました。どうもどうも。二階堂文雄です」

「どうも。柳間、柳間詩織です」

 間近で見ると、一段と背が高く見える。百七十、いやもっとある。

 百五十五センチの詩織は、彼のことを見上げる形となる。

(この人が物好きの二階堂くんか)

 少々面長ながらもニキビ一つない顔は綺麗で、髪も短め、制服の着崩しもない。思春期の男子にしてはずいぶん清潔感がある。そのことには好感を持てた。

「はじめましてだね」と文雄は改めて言った。「以後お見知りおきを」

 ただ、初対面からやたらニコニコしているタイプはいま一つ信用ならない。警戒は緩めなかった。

「柳間さんが構えるのも分かるよ」

「え?」

「知らない男からいきなり屋上に呼び出されたらね」

 その上、相手の考えていることを読むのも上手いときた。

「話ってなに?」

 苦手なタイプだなと思った。

「手紙の件なんだけど、柳間さんに訊きたいことがあってさ」

 告白でもドッキリでもなんでも捌いてみせる、と詩織はガードをがっちり固めたのだが、

「小説は好き?」

 相手は後ろから背中をちょんと突いてきた。

「……ショウセツ?」

「小説、ノベル、OK?」

 聞き逃したと思ったのか、文雄は懇切丁寧にもう一度言った。

「ちょっと待って」

 当然聞き逃したわけではない。「つまり」と相手に確認した。

「小説が好きかどうか訊くためだけに、私を屋上まで呼び出したの?」

「なんの予告もなしに教室に行ったら驚かせちゃうと思ったから手紙にしたんだけど、靴箱勝手に開けたのは謝るよ」

「靴箱のことは別に……いや、そういうことを訊いてるんじゃなくて」

 共通の話題を見つけてから徐々に本筋に近づけていく、回りくどいやりかたなのかと思った。どうやらそうではなさそうだった。

「俺、小説仲間がほしいんだよね」

「小説仲間?」

「書いた作品を見せ合ったり、お互い色んな作品を薦め合ったり、そういう仲間がさ!」

「はぁ」

 なら誘う相手を間違ってるよ、と詩織が言い返す前に、文雄は言った。

「柳間さんの作文『十年後の私から』昨日今日で二回読みました」

「え……」

「あれは傑作だったよ」

 笑顔でピースしている文雄を見つめていたら、爪先からみるみる血の気が引いてきた。

(なんなのこいつ……)

「十枚も大変だったでしょ?」

「時間はかかったけど……」

 文雄が言う作文とは、夏休みの課題のことである。

 テーマは『十年後の私から』。四百字詰め原稿用紙で三枚。

(二十五歳の私から十五歳の私へ、ね)

 気乗りしない課題だったのにいざ書き出してみると、未来の自分からお説教めいたことをあれこれ言っておきたくなって、三枚でいいところを熱中しているうちに十枚も書いていた。もっと有意義な時間の使いかたがあっただろうに、あんなものを真面目に書いた自分は馬鹿だった。……その後のことも含めて。

「十年後の自分をリアルに描く想像力。その姿を的確に、ときに詩的に表現する文章力。あれはほとんど小説になってたよ。それも読み応えのあるね」

「だから私が小説好きなんじゃないかって思ったの? 作文がちょっとばかり読みものになっていたからって」

「違うの?」

 単純すぎる結びつけを、詩織は鼻で笑いそうになった。

「たまには将来のことを真面目に考えてみるのも悪くないかなって、それでちょっと熱中しただけだよ」

「ちょっと熱中したぐらいであれだけいい作文が書けるなら小説の才能あると思うんだけどな……これを機に書いてみる気ない?」

「ないです」詩織は苦笑いしながら言った。「あまり買い被られても困るよ」

 ヨイショしているわけではなさそうだ。

 分かり合える仲間がほしい、文雄の気持ちは詩織にも少しは理解できる。待っているだけではなく行動する熱意も純粋さも皮肉抜きで立派だと思う。夜な夜な暗い部屋でなにか始まらないかと、ただ星を見上げているだけの自分と比べたら何倍も。

「私、文学少女じゃないから」

 でも答えはノーだ。

「これから本格的な受験シーズンだっていうのに小説を書いている暇なんてないよ。大鷄西おおとりにしが第一志望なの」

「大鷄西!? ひゃー、やっぱ頭いいんだね。そりゃ暇ないかもね」

 大鷄島おおとりしま西高校。県一番の進学校の名前は、それなりに効果があるようだった。

「かも、じゃなくてないの」

 これ以上食い下がってくることがないように、今度ははっきりと「小説を書く気はないです」とノーを突きつけた。

「あと、あの作文のことはあまり触れないでもらえる? ……掲示板に貼ってあるやつ、本当はいますぐにでも引っ剥がしたいぐらいなんだから」

「そうなの? 熱のこもった優秀作なのに」

 詩織は唇の端を歪めた。「頑張ったで賞の間違いじゃない?」

 早乙女妃さおとめきさきの華やかなインタビュー記事と並んだら、あんな自己愛のソースをべったりとかけたような作文など惨めでしかない。

 二回も読むような変人は彼ぐらいだ。

「話はこれで終わり?」

「短いのでもいいから一回書いてみない? ね、この通り」

「しつこいよ、君」詩織はぴしゃりと言った。「馬鹿にしてんの?」

「いや、そんなつもりは全然」

「小説仲間がほしいなら私じゃなくてもいいじゃない。それこそ図書委員の子でも誘って、そういう子達と書いたり読んだり楽しくやってれば」

「うーん、そういうことじゃないんだな」

「なにが?」

「柳間さんのことは、そういうふわっとした気持ちで誘ってるわけじゃないんだよ」

「そういうのってなんのことを言ってるの?」

 持って回った言いかたに、詩織は熱くなってきていた。

「柳間さんは書くべき人だと思うんだよ。てか書かずにいられないタイプ」

「私が小説を?」

「そう。柳間さんはきっと小説に向いてるよ」

「向き不向きってあるの?」

「もちろんあるよ」

 彼の態度からは徐々に冗談っぽさが消えてきている。

「その根拠はどこから?」戸惑いを抑えつけながら、詩織は訊ねた。「芸術なんて才能の世界でしょ?」

「三分の一正解」

「三分の一? 半分じゃなくて? 仮に才能の他が努力だったとして、あとなにがあるって言うの?」

「情熱」

 情熱――この言葉だけは、なぜか胸に刺さった。

「書いてみれば分かると思うんだけどな。小説の楽しさが」

 ニッと笑っている文雄に、詩織は一層無愛想さを装って言った。

「なら、なおさら手を出さないほうがよさそうね」

 小説仲間見つかるといいね、と言い残して、彼女は屋上をあとにした。

「情熱」という言葉に、微かな苛立ちを覚えながら。

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