第一話(二)
この日の夜、詩織は受験勉強の休憩中に国語の教科書を読んでいた。名前ぐらいは誰でも知っている文豪の短編である。
「ふーん」
普段は登場人物よりも採点者の気持ちに寄り添いながら読んでいるテキストも、今夜はテレビの流し見をするぐらいの軽い気持ちで読んでみた。すると、説教臭いだけかと思っていた古典作品がこれまでと違う顔を見せ、思いのほか面白く読めてしまった。
清廉潔白な主人公にも意外と俗っぽい一面があり、登場人物達が右往左往する様は、彼らが大真面目な分だけコント染みていた。
その古典を読み終わったあと、
(現代ものの小説もあったはず)と教科書の目次を見ていたら、文雄のニヤニヤ顔がふっと浮かんで、はっと我に返った。
(だからって書くかどうかは別問題だよ!)
鞄の奥まで教科書を突っ込み、詩織は再び実になる勉強へと戻った。
クラスメイトが部活動で爽やかな汗を流し、恋だ遊びだと色鮮やかな青春を謳歌しているのを横目に、詩織は三年間ずっと帰宅部で、周りとも極力関わらずにいた。勉強ばかりの日々。言いかたを変えると勉強しかしてこなかった。
運動音痴に加えてチームプレイも苦手。そんな少女には文化部にしても美術部しか選択肢がなかった。消去法で入った美術部でさえ二ヶ月と続かなかった。
入るからには絵が上手くなりたい、と入部当初はそれなりにやる気があった。皆が口を揃えて「あまり面白くない」と敬遠しがちな静物デッサンも面白くて、詩織は何時間でも集中できた。集中力が研ぎ澄まされていくに連れて頭の中が透き通っていくあの感覚をどこまでも追求していきたい、そう思っていた。
しかし、手よりも口ばかり動かしている部員達の中では創作に集中できず、ノイズも日に日に大きくなっていく。彼らにしても孤高の絵描き気取りでいる可愛げのない新入生は目障りな存在だった。
ある日、「あ~、そこの描きかたはねぇ」と横から口を出してきた先輩に「下手くそのアドバイスはいりません」とちょっと言い返したら、それだけで大騒ぎとなった。「黙々と一人で取り組める」「やればやるほど上手くなる」向いていたかもしれない分野を自ら捨てることに多少の未練はあったが、もう馬鹿馬鹿しくなった。
美術に特別な愛情を抱いているわけでもなかったので、詩織はそのまま美術部を去った。
美術部を辞めるとき、(そのうちなにかやりたくなるでしょ)と詩織は軽く考えていた。
誰かが手を差し伸べてくれるかもしれない、いま思うと、自分は甘い夢をぼんやりと見ていただけだった。うたた寝をしていたらいつの間にか夜になっていたかのように、結局なにも始まらなかった。
やって損はない点取りゲームに興じているうちに、中学生活が終わろうとしている。いや、ほとんど終わったようなものだ。
――書いてみれば分かると思うんだけどな。小説の楽しさが。
新しくなにかを始めるには、もう遅すぎる。
突如現れた変人のせいで悲観的な気持ちと数日間向き合うはめになった詩織だが、心に灯った小さな火を未だに「ふっ」と吹き消すことができずにいた。暇があると「傑作エンタメ!」「読みやすい純文学」「中高生向けの青春小説特集」とネットで調べている。
(このままじゃ勉強が手につかない)
(勉強の息抜きには悪くないと思う)
(一般教養として小説の四、五冊買っても損はない……はず)
★★★★★★
今日の放課後は本屋に寄って帰る。図書館で借りるのではなく、「新刊で買うんだ」と朝から気合い充分だった。
(ときには素直に負けを認めてもいいか)
ふふふ、とすっかり自分の世界に入っていた詩織だが、
「きゃはは」と耳障りな笑い声で、現実に引き戻された。
ムッと振り返ると、早乙女妃の取り巻きが、お猿さんの玩具よろしく手をパンパン打ち鳴らしながら大口開けて笑っていた。
彼らや彼女達がチヤホヤしている美少女は、今日も掃除をせずに帰る気でいる。
詩織は壁に箒を立てかけ、彼らの様子をしばし観察した。
「えー、あたしそんなきついこと言わないよー」
妃が切れ長の瞳を細めて笑った。気の強いはっきりとした顔立ちは、ちょっと笑うとそれだけで印象が柔らかくなる。スタイルもすらっとしていて、時折長い髪を優雅に掻き上げる仕草など、同性でもうっとり見惚れそうになるほどだ。
「早乙女さん、今週は教室掃除でしょ」
今日はそれらがすべて気に食わなかった。
正面切って行くと、お猿玩具の側近に「ちょっと」と肩を掴まれた。「邪魔」と詩織は振り払った。
「またサボる気?」
「ごめんね! 六時半から劇団の練習があるの」
もっとも、熱くなっているのは詩織だけだった。「うざ」とでも睨み返してきたらこちらも踏み込みようがあるのに、相手はつくりものの笑顔で「いつも悪いとは思ってるんだけど」と、ひらひらっとかわしてきた。
詩織は完全にコケにされていた。
「本番が今月の終わりでさ、中学最後の舞台だし――」
周りの沈黙もまた妃を味方していた。先ほどまであんなに賑やかだったのに、いまは「しーん……」と静まり返って、居心地が悪い。
「まだ四時だよ」
それでも詩織は口にしてしまった。
「桜井さん達と喋ってたじゃない。十分ぐらい時間あるでしょ?」
みっともない、カッコ悪い、分かっているのに、詩織は意地を張って相手を睨み続けていた。
聞かん坊の子どもみたいに顔を赤くしている詩織に、妃はつくり笑いをやめた。
「……あたし、柳間さんと違って暇じゃないんだけどな」
詩織の耳元でボソッと言って脇をすり抜けて行った。
(柳間さんと違って……?)
タイミングを計っていたように、取り巻き達が妃のもとへ群がり始めた。
――私達が代わりにやっとくから早く行きなよ。
――今度の舞台観に行くから。練習頑張って!
――皆で応援してっから。
――柳間ってほんと心狭いよな。
――サクちゃん達のこと言い出したの、あれちょっと違くない?
――引くに引けなくなったんだろ?
――みっともないね。ガリ勉少女は。
――コミュ障。
――ねぇ、明日からハブっちゃう?
よく聞こえてくるひそひそ声だった。
光に群がる蛾のようなクラスメイトを見ているうちに、頭に上っていた血がさぁと引いていくのを、詩織ははっきりと感じた。
(……私、間違ったこと言った?)
詩織は取り巻き達を押しのけてゆき、妃の横っ面を引っ叩いていた。
★★★★★★
指導室で若い女性の担任にこっぴどく叱られたあと、(今日はとことん堕ちたい)と、詩織は学年掲示板の前にいた。
【大鷄島新聞
“観ている人達の心に強く残る女優になるのが目標です。
周りの人達への感謝を忘れずに、これからも頑張ります。„
「掃除は平気でサボるくせに……」
華やかな笑顔に向かってボソッと毒づいたら、途端に虚しさが込み上げてきた。
インタビュー記事の隣には、原稿用紙が十枚きつきつに貼られている。
作者の小ささや卑屈さばかりが目につく作文を一体誰が読むのか。いつまでこのままにしておくのだろうか。
『十年後の私から』 三年二組 柳間詩織
最後の励ましが特に傑作だった。
“勉強や就職活動をひと一倍頑張った私は、たしかに社会的な地位を得ることはできました。
ですが、私はいまも寂しいままです。
休日にすることといえば、部屋の掃除と近所の散歩ぐらいで、この町には知り合いが一人もいません。職場の人とも仕事だけの付き合いなので、友達も、当然恋人もいません。
一人ぼっちはいまに始まった話じゃないので慣れていますが、することがない、夢中になれるものがない、暇を持て余している人生はとても寂しいです。ときどき寝ている間にふうっと消えたくなる瞬間があります。そんな日々がこれからも続きそうな気がします。
だからどんなことでもいいです。新しい世界に出会ったときは、ひとまず飛び込んでみてください。
男の子達が高いところから川に飛び込んだりするでしょう?
恐れも不安も呑み込んで、あんな風に「えい!」と飛び込んでみたらいいんです。
上手くいくかどうかは飛び込んでから考えればいいんですから。
どうか負けないでください。
明日を変えるのは今日のあなたです。
十年後の私から十五歳のあなたへ……。„
作文を読み終えたあと、
(自分に期待するのはやめよう)と、かえって清々しい気持ちになった。
この頃はちょっとした寄り道が続いただけだ。明日からまたこれまで歩いて来た道に戻ればいい。今度こそありもしない可能性に目を閉ざそうと決めた。
それなのに、どうして――
「……なんで、人の靴箱また勝手に開けるかな」
手紙ではなく今度はルーズリーフだったが、それは紛れもなく二階堂文雄から柳間詩織への二通目の手紙だった。
いやー、聞いたよ。色々大変だったみたいだね。
でも大丈夫!
物語ってさ、主人公がとことん打ちのめされてからじゃないと始まらないもんでしょ?
そういうわけだから、小説を書くならいましかないよ!
柳間詩織なら書ける。
いい小説が書けるはずだから、めげずに頑張って!
困ったことがあったら連絡頂戴、とご丁寧に連絡先まで書いてあった。
文雄への憎しみと感謝がごちゃごちゃになって、詩織は居ても立っても居られず走り出していた。
「きっとこれが最後のチャンスだ」
四百字詰め原稿用紙なら、夏休みの課題用に買ったものがいくらでも残っている。
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