第一話(三)

「月の夜……前方ムーンウォーク……悪戯で月を散らす……仕返しを見ていたのは月だけ……月色の刺し傷……三日月のナイフ……月光ナイフ……」

 月についての小説を書こうと思ったのは、下校中に見た月があまりにも綺麗だったから。それだけだ。それだけで充分なはずだ。

 唇を一度舐めてから、詩織は原稿用紙に処女作のタイトルを書いた。――『月光ナイフ』


 “家から持ち出した果物ナイフに月の光をたっぷりと吸わせてから私は夜を歩き始めた。A子、B子、C子といじめっ子達の顔を一人ずつ思い浮かべて、彼女達をどうしてやろうかと、ナイフに映る青白い私は、道化染みた顔で笑っている。

 昨日はあんなことをされた。今日はこんなことをされた。明日はたぶんああいうことをされるんだろうな、と心は悲しいはずなのに、なぜか素直にしょんぼりできない。なぜか頬がにぃっと引き攣っている。„


「なんだこれ……」

 勢いよく書き始めたはいいものの、既になにを書いているのか分からない。自分に酔いながら回りくどい文章を書けば文学っぽくなる、こんな典型的な思春期ポエムをまさか自分が書くとは思ってもみなかった。

(前途多難かもしれない)

 それからしばらくの間、書いては消し書いては消しの繰り返しで、話が一向に進まなくなってしまった。文章ばかりこねくり回して話が進められなくなる、小説を書き始めた人間によくある躓きに、詩織もしっかりと躓いていた。

 とはいえ、タイトル以外の進捗がないまま日付が変わったところで、さすがにこのままではまずいと、話を一旦整理することにした。


   【月光ナイフ】大雑把なあらすじ


 “自意識過剰な女子中学生(二宮佳穂)はクラスメイトから嫌われている。彼女達は汚い言葉を吐いたり、暴力を振るってくることはないが、クスクス笑いや架空の人物名をあてて悪口を言ったり陰湿なやりかたで佳穂を教室から排除しようとしていた。

 いじめの主犯格は、A子、B子、C子の三人。ただ、証拠がないので「やめてよ」と言ったところで白を切られるのが目に見えている。

 このまま泣き寝入りをしたくないが、クラスメイト、担任教師と頼れる人が周りにいない佳穂は、この状況を自分でどうにかするしかない。

 嫌がらせがだんだん露骨になっていく中で、佳穂は彼女達に対してある復讐を思いつく。目には目を、陰湿な嫌がらせには陰湿な嫌がらせを。

 彼女達の家の表札にナイフで引っかき傷をつけよう。

 そんなことをしたところでなにも解決はしないが、気は晴れるはず。決行日は三日月の夜。そしてその日がやって来た。„


 こうしてあらすじをちゃんとまとめてみると、話が少しは見えてきた気がする。

「文章に囚われすぎない。分かりやすく書くこと……」

 自己暗示をかけながら再び書き始めた。


 “十一時に家を抜け出した私は、近所の空き地でしばらく月を眺めて、それから剥き出しの果物ナイフには青白い光をたっぷりと吸わせた。

 こんな夜更けに家を抜け出すなんて初めて。夜の散歩に私は少し浮かれていた。

「ここから一番近いのはA子の家ね」

 私はニヤリと笑って、夜の旅へと出かけることにした。

 旅の目的は、いじめっ子達へのささやかな復讐だ。„


 ようやく小説らしい出だしになってきた。この気持ちの高ぶりが逃げないよう書き続ける。

 深夜。この静かな世界で孤独と向き合いながら、詩織は誰よりも自由でいられた。


 “彼女達の家の表札に引っかき傷をつけて回ったからといって、なにかを変えられたわけじゃない。

 夜の底が白くなり始めてきた町を、背中を丸めて歩きながら、それでも私は満たされていた。

 今日もまた教室で彼女達と顔を合わせるけれど、彼女達は「表札に悪戯したのあんたでしょ!」と私に言えない。

 真夜中の復讐を見ていたのは、ニヤリと笑っていた三日月とB子の家の近所にいた野良猫だけだ。

 ささやかな復讐をしてみて一つ分かったことがある。

 嫌いな相手への嫌がらせは、意外と楽しい。気をつけないと癖になってしまいそう。

 こんな非生産的な終わりかたでいいのかと自分でも首を傾げたくなる。

 でも、小さな世界の営みなんてこんなものじゃないだろうか。要は私がすっきりしたかどうかが大事なのであって、この物語に教訓はなに一つない。月夜のナイフの物語は、空っぽなままで終わっても、初めて世界に歯向かったこの夜を、私はずっと忘れないだろう。

 ……ただ、目下の問題が一つ。

 台所から剥き出しのまま持ち出してきた果物ナイフをどうやって元の場所に戻そうか。六時までに家に戻らないとお母さんに叱られる。

 スマホで時間を確認すると、もう六時十分だ。

「……さて、どう説明しようかな」

 一日の始まりを、少女は憂鬱な気持ちで住処へと帰って行く。„


 ポエムを書いていたときとは違った意味で、もはやなにを書いているのか分からない。なんの偶然か現実の時計も六時を少し回ったところだった。

 カーテンを勢いよく引いたら、目を焦がすほどの眩しい光が部屋中を照らした。

 原稿は二十枚を超えたあたりから数えていない。

 夜通しの執筆で眠気は限界寸前だったが、彼にはひとまず処女作完成の報告をすることにした。


《おはよう二階堂くん。処女作書き上げたよ》

《うおおおお! やったじゃん!》

 朝早くにも関わらず、すぐに返信がきた。元気がやたらいい。通話ではなくメッセージのやりとりにして正解だった。

《初めての執筆はどう? 楽しかった?》

《も・の・す・ご・く大変でした。話したいことは色々あるけど、もう限界なので寝まふ! 今日はズル休みします》

《寝まふ(笑) とにかくお疲れ。そうそう。十一月に白峰言葉しらみねことはって地元の作家がワークショップをするみたいだけど、よかったらそれも参加してみない? あと、これからは俺のこと文雄って名前で読んでちょ!》

《寝ます!!》


 詩織はこの日生まれて初めてズル休みをした。

 夜通しの執筆を経てのげっそりとした顔には説得力があり、

「頭が割れるように痛い……」と、もう一つおまけに弱々しい声で訴えれば百点満点。

 母親から仮病を疑われることはなかった。それどころか「あまり根を詰めて勉強したら身体によくないわよ」とお墨つきまでもらった。

 初めてのズル休みに少しドキドキしながら、詩織はようやく布団を被った。

 初めて書いた小説を胸に抱き締めながら眠りについたとき、遠い世界のどこかで、いま本のページが捲られた、詩織はそんな声を聞いた気がした。

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