第六話(一)

 貞治が倒れたのは、白峰言葉のワークショップから数日後のことだった。

 救急車を呼んだのはたまたま遊びに来ていた茶飲み友達で、はじめは「コホン」と咳は小さなものだったと言う。「風邪か?」小さな咳はやがてでたらめに大きくなってゆき、これはまずいと思ったときには、苦しそうに胸を押さえていた。お互い年が年だけにすぐ救急車を呼んだ彼は、柳間一家が駆けつけるまで貞治に付き添ってくれたのだった。

「おじいちゃん、ちょっと風邪をこじらせたみたいだ」

 戻ってきた両親からは、曖昧な説明しかされなかった。

「入院も念のためよ。すぐよくなるわ」

 母親は、自分にそう言い聞かせているみたいだった。

「いまは受験のことだけ考えなさい」と帰りに母親から言われた。「もし落ちたりでもしたら、おじいちゃんが悲しむわ」

(そんなことどうだっていいじゃない!)

 とは思っても、大鷄島西高校は県で一番の進学校。合格圏内でも万が一がある。それに、先行きの見えない状況で「だけど!」と訴えたところで、両親を困らせるだけだった。

 もう子どもじゃない。「分かった」と大人しく頷くしかなかった。

 もっとも、両親の言いつけを守ったのは数日だけで、それからは放課後の病院通いをするようになっていた。

 貞治が起きているときには、学校の出来事や小説のことなど(嘘をちょっぴり交えてでも)楽しい話をしようと努めた。やせ衰えていく病人を前に、身振り手振り明るく振る舞うのは難しいことだった。

 けれど、気持ちはちゃんと伝わっていた。貞治は微かに笑みを浮かべながら、詩織の話に(そうかそうか)と目で頷き、ときにはその目に涙を浮かべることもあった。

 貞治は次第に見舞いに行っても寝ていることのほうが多くなり、そんなときパイプ椅子に三十分もじっと座っているのはなかなか辛かった。少しでも目を覚まさないかと彼を見つめていると、

(貞治さんの容態……受験……小説……)

 自分の中の不安を見つめていることもあった。

 看護師さんの話を聞くと、この頃は目を覚ましている間も身体を起こすことなく歯を食い縛りながら天井を見上げているのだそうだ。

 詩織はその理由がすぐに分かった。

 久しぶりに小説サイトを覗いたら、連載小説の更新は倒れる一週間前から止まっていた。それも主人公の青年がヒロインに告白してからの、その返事待ちという一番の読みどころで。

 これまで週三のペースで更新し続けてきただけに、若草茂のファンはコメント欄で「早く続きが読みたい~」「これどうなんの!?」と、途切れた物語の再開を熱望していた。

 彼らの感想を苦い気持ちで読んでいた最中、詩織はある感想にふと目を留めた。


“はじめまして。

『スマホもパソコンもないけれど』を最近読み始めた者です。

僕は若草様の作品が大好きです。

若草様の作品が好きすぎて、僕も皆が楽しんでくれるようなラブコメを書いてみたくなりました!

どんな話を書こうかはまだ考え中なんですけど(汗)


今年の冬は特に寒いようなので、どうかお身体に

気をつけてください。

二人の恋がどうなるか続きを楽しみにしています!

あなたの作品に出会えて本当によかったです!

ありがとうございます!„


 読者を作者に変えてしまう作品。

 白峰言葉の作品に魅了されて自分も書き始めた、といつか言っていた。あのとき感じた熱い思いを、祖父もまた自作を通じて誰かに伝えたのだ。

 偉大だ。偉大だ。とても偉大なことだ!

 それだけにクライマックス前の中断が、どれだけ悔しいか。

 祖父に万が一のことがあったら、この素晴らしい物語は未完のまま終わってしまう。孫の私がどうにか引き継げないだろうかと、馬鹿なことを思ったことも一度や二度じゃない。同じ創作者として口にしてはならないと分かっていても、祖父が自分の物語を他人に委ねたりしないと分かっていても。

 小説のコメント欄を見て以来、詩織はこれまで以上に貞治と過ごす時間を大切にしたいと思うようになっていた。

 学校をサボって一日中病室にいようかと考えたこともある。だが、仮に目を覚ましたとしても、肺も悪化させつつある貞治とは長く話せない。自分が病室にいるだけでも疲れさせてしまうかもしれない。

 そこで詩織はどうにかして貞治とコミュニケーションが取れないものかと、ある方法を思いついた。

 ノートだ。孫の存在を感じてもらえるように、見舞いのたびにメッセージを残しておく。ノートなら読みたいときに読める。読み返せる。

「おじいさんもきっと喜ぶわ」

 看護師さんにも許可をもらったので、詩織はさっそくノートを持ち込んだ。

 文字は大きくはっきりと。文章もあまり長くなりすぎないように気をつける。

 行ったきりの手紙を出すつもりで、そういう気持ちで書き始めた。

 心の拠り所を求めて始めたことだから、正直返事は期待していなかった。それだけに、返事が書いてあったときには、嬉しさよりも驚きのほうが大きかった。


これなら詩織ちゃんと話すことができそうだね。

じいちゃんもこんな風邪早く治して また小説を書くから

詩織ちゃんもいまは自分のことを第一に頑張ってください。

いつもお見舞いに来てくれてありがとう。


 このメッセージを読んでいたとき、祖父が眠っていてよかった。孫が目の前で泣きそうになっていたら、余計な気を使わせてしまう。それほどこの手紙は詩織の心に突き刺さった。

 容態が行ったり来たりする中で、交換日記はやがて続かなくなった。文章は短くなり、文字もなんと書いてあるのか分からないほど乱れてきて、辛うじて読めた字はこの二つだけだ。「小セツ」「死」

 すっかり顔見知りになった看護師さんは、「祖父を余計苦しめてしまったんじゃ……」と自分を激しく責める詩織を、「あなたはなにも悪くない」と抱き締めた。「自分を追い詰めるようなことを思ったら駄目。あなたの気持ちは伝わっている……ちゃんと伝わっているから」

 その日の夜、これまで病院通いを黙認していた両親からも、「しばらく病院に行くのはやめなさい」と言われた。年内最後の試験が近いことよりも、「見舞いのたびに思い詰めた顔で帰ってくる詩織を見ているとこっちまで辛くなる」と母親に泣かれそうになった。

 詩織も今度こそは両親の言うことをちゃんと聞くことにした。詩織自身、心も身体もボロボロの状態で返事の来ない手紙を書くことが、日に日に辛くなっていた。

 実力試験の期間は、久しぶりに自分を労ることができた。ちょっとした息抜きに小説を読み、気分転換に近所の河川敷を散歩した。次回作――大鷄島文学賞の応募作にはまだ到底取りかかれそうにないが、苦しい日々の中で、自らの意思で物語に触れた。それだけでも心は慰められた。

 実力試験が終わったあと、妃とも仲直りをした。

「詩織、この間はきついこと言ってごめんね」

「ううん。私こそ自分のことしか見えてなかった」

「お互いこれからも頑張ろう」

 放課後、詩織は病院行きのバスに乗った。

 気持ちが楽になったからか、車窓に映る自分の顔は少し明るかった。

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