第六話(二)
「今日はおじいさん起きているわよ」
病院に着くと、さらに吉報が待っていた。
「あなたの顔色もよくなったようだし、でもあまり刺激したりしないようにね」
そう言いつつも、看護師さんは詩織にウインクした。
(貞治さん!)
気持ちは走っても廊下は走らないように、詩織は早歩きで病室へと向かった。
深呼吸を一つ。静かにノックをして入室すると、貞治は天井を見つめていた。以前聞いていたようには歯を食い縛ってはおらず、むしろ穏やかな顔をしている。
「貞治さん、詩織です」と緊張しながら呼びかけると、貞治の目がこちらを向いた。
「やぁ、詩織ちゃん……」
声は掠れ気味だったが、名前を呼ばれたのはいつぶりだろう。胸がじんとして、それを面に出さないように、「はい」と詩織は明るく返事をした。
「あぁ、無理をしないでください」
貞治が身体を起こす素振りを見せたので、詩織はやんわり寝かしつけた。
「こんな、ざまで済まないね」
(そんなこと)と詩織は首を振って、ベッドの傍にパイプ椅子を寄せた。「こうしてお話できるだけでも嬉しいです」
「本当に」と口にしてから、彼女はすぐに(……あれ?)と言葉の続きが上手く出てこないことに気づいた。
祖父が寝ているときには、心の中であれだけ話しかけていたのに、いざ起きている彼を前にして、ぎこちない笑みを浮かべることしかできない。
もどかしさを感じているだけでは沈黙は埋まらない。(なにか楽しい話題は……)と考え込んでいたら、
「最近どうだい?」と逆に気を使わせてしまった。
恥ずかしい。詩織は(ん)と下唇を噛んでから、「万事上手くやっています」とにこやかに答えた。
「受験勉強の合間に、大鷄島文学賞に出す作品の構想を練っているところです。今回も純文学路線で行こうと――でも、この間みたいにごちゃごちゃとした作品にならないように、今回は構成からじっくりと取り組んでいくつもりです」
詩織の話を聞きながら、「そうか」「いいことだ」と貞治は嬉しそうに目を細めていた。
「詩織ちゃんは頑張り屋さんだ。受験も勉強も一生懸命頑張っている」
「これからはもっともっと頑張っていきますよ」
両手の拳をぐっと握ってみせた。貞治へのアピールと、さっと過ぎった白紙の原稿の幻を振り払うために……。
「詩織ちゃんはいい子だ。本当に自慢の孫だ」
「なら、もっといい孫になってみせます」
珍しく冗談っぽく言う詩織だったが、この頃から徐々に、貞治の穏やかな表情に不安を覚え始めていた。
面会時間の三十分も残り僅か。そわそわと時計を気にし始めてきた詩織に、貞治はふとこんなことを口にした。
「じいちゃんの手は、なにかを残すことができたかな……」
『スマホもパソコンもないけれど』は、未完のまま終わってしまうかもしれないが、自分の作品に価値はあったか、と貞治は詩織にそう訊ねていた。
「もちろんです。貞治さんの作品は――」
この話をこれ以上続けていいものか迷った。このことを伝えて、祖父がまた歯を食い縛ってしまわないか。
「貞治さんの作品は、この世界にちゃんとなにかを残していますよ」
若草茂のことを一人の書き手として尊敬しているのであれば、たとえ身を引き裂かれるような痛みを覚えようと伝えたかった。このまま言わずにいたら後悔する、と詩織は例の感想を読み上げて、それからこれが孫のつくり話ではない証明に、スマホの画面も見せた。
(私は貞治さんにひどいことをしてしまったかもしれない)
「小説を書いてよかった」
まるで物語にピリオドを打ったかのような、祖父にこんなにも晴れやかな表情をさせてしまったのだから。
面会時間の三十分はとうに過ぎていたので、看護師さんが来る前にそろそろ帰らなければならない。
自分の行動は正しかったのか間違っていたのか、答えは分からない。ただ、後悔しているからといって逃げるような気持ちで帰りたくはないと、詩織は「また来ます」と力を込めて言い、貞治の手を取った。
骨と皮だけの干からびた手が悲しい。
「また来ます」と繰り返し、手に少しだけ力を込めた。
祖父はこの手で物語のバトンを次の人へと渡した。
「これからも頑張り続けるんだよ」
そう言って、祖父はたしかに手を握り返してきた。
そして、そのバトンは私にも――。
★★★★★★
病院を出ると、日が暮れ始めていた。
木枯らしに時折「さむ」と身体を縮めながら、並木通りを歩く。チカチカと灯り始めた電灯の淡い光が今夜はやけに頼りなくて、じっと見つめていたら、「貞治さん」と祖父の名前を呼ばずにいられなかった。
もう一度だけ振り返ったあのとき、貞治は微笑んでいた。口許がたまたま緩んだだけで、もしかすると気のせいだったのかもしれない。
あの顔を見た瞬間、詩織は悟った。生きている祖父に会うのは、きっとこれが最後だと。
病室から一歩遠ざかると、その数百倍の距離を遠ざかって行くような気がした。立ち止まらず、大股に廊下を歩き続けたのは、引き返したところで悲しい別れがまた一つ増えるだけだから。未練を振り切ろうと、唇をきつく結んで、下顎も突き出し気味に歩き続けた。
(小説で結ばれた絆は、簡単に断ち切れやしない)
バスが来るまでの間、何度もそう言い聞かせては、一人きりのバス停で、詩織はずっと泣いていた。
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