第十二話(一)
三月になって詩織はある問題に気づいた。
(このままじゃ三月末の締め切りに間に合わない!)
応募作の進捗管理をするにあたって一日の執筆量は、四百字詰め原稿用紙を四枚から五枚と決め、これまでこのペースを守ってきた。ノルマの計算自体に間違いはなかったのだが、詩織はあろうことか清書という最重要工程を失念していた。
詩織が『青い檻が破れてから』の執筆を開始したのは二月の中旬からで、これまで行ってきたことはすべて下書きだ。
先日、下書きもある程度進んできたので、少しずつ清書にも着手しておこうと数ヶ月ぶりにワードを立ち上げたところで、詩織は大問題に直面した。
(これは手書きと同じぐらい時間がかかるかもしれない……)
左手だけでタイピングを行うことがいかに不便か、いざキーボートと向かい合って初めて知った。キーを指で押すだけだから、手書きほどの訓練はいらないが、パソコンの扱いに慣れない人がAだのKだの一文字ずつ探しながらキーを叩く、片手タイピングはいつまでも終わらないモグラ叩きだった。仮に七十五枚での完成を目指すとなると(改行などを考慮しても)最低でも二万字以上のモグラ叩きが必要になってくる。
手首をほとんど硬直させた状態で長時間のタイピングを続けていると首や肩が凝る。指が攣りそうになる。背中がバキバキに張ってくる。特に肩甲骨の凝りかたがひどく途中で揉みほぐしたくても右手が使えない。
痛みや凝りを堪えながら一日中片手タイピングを行った翌日には、肩をほんの少し上げるだけで「うっ」と声が出るほどの筋肉痛に襲われた。痛みを堪えながらの下書きノルマは苦行そのもので、二千字近くを書くのに朝の七時から夕方の六時までかかった。これが土曜日で、翌日の日曜日は後々の清書のために普段の倍は書かないと厳しいと、一日八枚に挑んで朝の五時から夜の九時までかかった。痛みを堪えながらの強行執筆が終わる頃には精も根も尽き果て、左半身の筋肉痛が激しい頭痛まで連れて来た。バランスの悪い身体の使いかたをしているので、最近では右半身もあちこち痛み出すようになっている。
推敲を考えると、遅くとも三月中旬までには初稿を書き終えたい。となると、残り一週間弱。毎日死ぬ気で書き続ければ、既に満身創痍でも清書までギリギリ間に合うかもしれない。「かもしれない」ではなく、間に合わせないといけない。
大鷄島文学賞の一席を狙っているのだから、中学生だろうが、小説を書き始めてからまだ半年と経たない浅いキャリアだろうが、勝負の場に立てば一切関係ない。
華々しい妃のインタビュー記事と、誰もが素通りしていった作文。中学三年間ずっとなにも掴めずにいた空っぽな手のひらに、最後にせめて一つは胸を張れる勲章を手に入れたい。
白峰言葉も楠木賞の会見で言っていた。明日死んでもいいと思える作品を書くことが小説のすべてだと。
「……まったく」
それでも、休憩の合間に手首をぶらぶらさせていると、時折弱気なことを考えてしまう自分がいる。
(柳間詩織Aは下書き担当、柳間詩織Bは清書担当。分身の術でも使えたら……なんてね)
詩織はなんとしても卒業式までに作品を書き上げて、晴れやかな気持ちで彼に会いたいと思っていた。許してもらえなくてもいい。「自己満足じゃん」と笑われてもいい。中学卒業後、大鷄島を去って行く二階堂文雄に、「ありがとう」と「さようなら」だけは、ちゃんと目を見て伝えたい。
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