第十一話(四)
劇団の練習が終わったあと、妃から夕食に誘われた詩織は、彼女の行きつけのラーメン屋に来ていた。
「おじさん、豚骨ラーメン二つください」
午後五時を回ったばかりの店内はまだ空いていたので、二人はカウンター席にゆったりと座ることができた。
「いつもの背脂マシマシかい? そっちのお嬢ちゃんは?」
「え、はい。同じやつで」
詩織は反射的に頷いてしまった。
妃はニッと笑みを浮かべてから、
「豚骨ブラママを二つお願いします」と呪文でも唱えるようにラーメンを注文した。
「ここの豚骨ラーメン食べたら、もう他所の豚骨ラーメンなんか物足りなくなるよ」
ふふん、と妃は自信満々に言った。いつか喫茶ルヴォワールでも同じようなことを言っていたような気がする。
「ねぇ、劇団の人達とご飯食べに行かなくてよかったの?」
「送別会は今度の舞台の打ち上げとセットでやるんだってさ。だから気にしないでいいよ」
南国演人の次の公演は、どうやら卒業式とほとんど被っているらしい。「個別にやってたらお金がいくらあっても足んないもん」
「なるほど……」
「お、来た来た。ラー油いる? ちょい足しすると美味しいよ」
「じゃあ、ちょっとだけ頂戴」
妃にラー油を数滴入れてもらった。
「ありがと」
「どういたしまして」
割り箸も割ってもらった。
「それにしても、妃は色んな店を知ってるね」
「そう?」
美少女は髪を掻き上げてラーメンをふぅふぅ冷ましているだけでも絵になる。
「まぁ、舞台人は身体が資本だし、毎日しっかり食べないとね」
シンデレラ体重なんてアホらしい、と言いながら麺を啜る妃だが、いつ見てもスラッとしている。同じ痩せ型でも単に骨っぽいだけの詩織と違い、身体のラインには年頃の少女らしい柔らかさもある。
「あたしの生活を一ヶ月も続ければ、食事制限なんかしなくたって痩せるわよ」
最後の練習ということで、『雨が上がるまで待って』の熱演後も、彼女はコメディに一人劇、なんでも来いと何役も演じ続けた。
お腹も減るだろう。背脂マシマシの豚骨ラーメンを食べたところで、体重計にビクビクすることもない。
「替え玉くださーい」
あいよー、と厨房から威勢のいい声が返ってくる。
「ほんとによく食べるね。給食でおかわりするところとか見たことないよ」
「アイドルの辛いところね」
妃は冗談っぽく言った。
「皆のイメージだと、あたしってケーキと紅茶でごめんあそばせって感じなのかな?」
「かもしれないね」詩織はクスッと笑った。
「んなわけあるかっての。皆の前だから控えめにしてるだけで、劇団の練習がある日はいつもダッシュで家に帰ってから、こんなおっきいおにぎり二、三個頬張っていくんだから――」
「あぁ、そういうことだったのか」
「なにが?」
「ううん。なんでもない。ちょっと伏線回収しただけ」
「はぁ?」
(だから放課後の掃除をしょっちゅうサボってたのか)
卒業間近になって思わぬ伏線回収だった。
妃の食エピソードにたくさん笑ったあと、詩織は『雨が上がるまで待って』について訊いてみた。
「あの話、妃が書いたんだって?」
「……もしかして、伊藤のおばさんが話した?」
「うん。今日はあの人から色んな話を聞いたから」
正確に言うなら、こっちが訊いていないこともあれこれ喋っていた。
「伊藤さんはねぇ……悪い人じゃないんだけど、お喋りなのよね。あとお節介焼き」
「たしかに」
「なにか変なこと訊いてないよね?」
「訊いてないよ。劇団の運営とか舞台裏の話とかそういうこと訊いてたから」
「ふぅん。それならいいんだけど……」
まるで信用されていなかったが、タイミングよくラーメンの替え玉が茹で上がったので、伊藤のおばさんの話はひとまず置いておくことにした。
「『雨が上がるまで待って』だけどさ、私、傘原のキャラが好きだな。最後に『でも私は行く』って理穂の優しさから離れて行く姿が、観ていてなんかぐっときた」
「作家の卵さんに褒めてもらえるのは嬉しいけど、あんなの中二病をこじらせたようなもんよ。一度ぐらいは自分でも話を書いてみようかなって、それだけ」
「そんな寂しいこと言わないでよ。私は『雨が上がるまで待って』いい話だなって思ったんだから」
「……ふぅん。詩織がそう言ってくれるなら、過去の自分をちょっとは褒めてあげてもいいかな」
「それに、中二であれだけしっかりとした話を書けるなんて、正直……」
「嫉妬した?」
「少しね」
「あは、今日は珍しく素直じゃん。替え玉奢ってあげようか?」
「そんなつもりじゃ」
「いいのいいの。この子にも替え玉お願いします」
ちょっと、と止める前に、妃は詩織の分の替え玉も頼んだ。
「いっぱい食べてその腕早く治さないとね。物書き屋だって身体が資本なんでしょ?」
「卒業式もこのまま出ることになりそうだけどね」
「え、そんなにかかるの?」
「ギプスは取れても三角巾生活はまだ続くみたいだから、まともに動かせるようになるのは、早くて四月頃」
それもどこまで元の状態に戻るかは分からない。
「うわ……、大変ね」
「でも、左手生活にもそろそろ慣れてきたから。最近はもうこのまま左利きになってもいいんじゃないかなって思ってる」
「なんていうか、怖いぐらいタフね」
「そう? たかが腕一本だよ?」
「『たかが』って、さらっと怖いこと言うね。あたしはさすがに腕とか足とか折ったら、ちょっとぐらい泣いちゃうと思う」
「役者は舞台で動き回るもんね」
「そういうことじゃなくて……」
「どういうこと?」
相手の目をじっと見つめたら、
「なんでもない」と彼女は目を逸らした。
(腕や足を折ったら妃でも心が折れるのかな?)
そんなことを思っていたときだ。
「大した話じゃないんだけどさ」と、妃が唐突にめかぶのことを話し始めた。
「めかぶさんのこと、前は尊敬してたんだよね」
「やっぱりそういう感じなんだ」
「やっぱり?」
「お互い相手のことがあまり好きじゃないんだろうなって、見ていて凄く伝わってきたから。……少なくとも、妃はめかぶさんのこと嫌ってるんだろうなって」
前に進む人間と、それらしい理由をつけて足を止めてしまった人間。両者の温度差は、そう簡単に埋められるものではない。違うところを見ている、これもまた心が離れて行く……。
「別に嫌ってるわけじゃないよ。ただ、前ほどはなにも思わなくなっただけで」
準備運動が終わったあと、妃はあのとき、めかぶからこう言われたそうだ。――舞台は高校までにしといたほうがいいよ。
「めかぶさんが言うことも分からなくはないよ。あの人、高校時代はそれなりに有名な人だったし。……だから、他の人達よりも色んなものを見ちゃったんだと思う。いいものも、悪いものも。
あたしだって、そこそこ有名な舞台のオーディションでセクハラまがいのこと言われたことあるしね。――ルックスはいいから別の仕事なら紹介できるよって」
ぞわっとした。それは、泥のついた手で身体を触られたような嫌悪感だった。
目を見張っている詩織に、妃は続ける。「そういう嫌な話も含めて、めかぶさんは舞台で食べていこうだなんて考えないほうがいいって言ったんだと思う」
「それで、妃はどう思ったの?」
「負け犬がなんか言ってるなって、超冷めた」
遠慮のない物言いに、詩織は思わず笑ってしまった。「いまのいいね。妃らしくて」
「あたし、あの人に言ってやったの。あなたと一緒にしないでくださいって。そしたら『楽しみにしてるね』って中指立ててきてさ、あの引き攣った笑顔、あれは傑作だったなぁ」
★★★★★★
お腹いっぱいラーメンを食べたあと、二人はバス停までの道のりを、卒業後のことや、小説、舞台と明るいお喋りで満たしていた。
「二階堂となにかあったの?」
それだけに、妃が文雄の名前を出してきたとき、詩織は急に水を差されたような気持ちになった。
「受験中だったから教室に来るの控えてたのかなって思ってたけど、ずっと来ないよね。だからなんかあったのかなって」
「別に」
文雄があの日のことを話したとは思えない。他人にそういう話をして慰めを求めるほどやわな男じゃないはずだ。
「喧嘩でもふっかけたの?」
となると、単純に妃の勘が鋭いのだ。
「ふっかけたって……。だとしても、もっと別の言いかたない?」
「やっぱりね」
「そういう刺々しい話じゃなくて、私の中で色々と考えた結果というか……」
「あっそ。でも、仲直りするなら早めにしといたほうがいいと思うよ」
今度はからかう様子もなく、真面目な顔で言ってきた。
「あいつ、卒業したら都会に引っ越すんでしょ?」
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