第十二話(二)

 家で長時間の執筆に取り組んでいると、両親から心配されたり小言を言われたりすることが増えてきたので、詩織は学校が終わったあと、最終下校時間になるまで図書室に入り浸るようになっていた。

 図書室はいつ来ても閑古鳥が鳴いているので、人目を気にすることなく静かな環境で執筆に取り組める。

 彼女が現在取り組んでいる『青い檻が破れてから』は、中学三年生の少女を主人公にした青春ビルドゥングスロマンである。


 “主人公の二宮佳穂は、苦労知らずの平凡な女子中学生。中学三年生の夏、彼女の父親がうつ病になったことで、それまでののんびりとした生活が一変する。母親に代わって家事全般を任されるようになり、先の見えない暮らしから私立高校への進学も危ぶまれるようになる。苦しい生活の中での唯一の支えは高校のオープンキャンパスで知り合った男の子だけだった。それも、家のことを優先し続けているうちにいつしかすれ違いが多くなってくる。精神的に不安定な父親が暴れるたびに家族全員が振り回され、佳穂はある日、暴力を振るわれた。下手をすれば顔に傷が残るかもしれなかった、それほど激しいもので、二宮家の崩壊はこの日から始まった。

 もう泣いている暇はないと、佳穂は次第に「自立」を考えるようになる。憧れていた私立高校から実務に活きる資格が取れる商業高校へと進路を変え、彼氏とも別れる。家族とも心の距離を取り始める。一日でも早く家から出るために、彼女は卒業式を迎えるまでに色々なものを躊躇なく切り捨てていった。

 中学校の卒業式が終わったあと、佳穂は卒業証書を破り捨てて一人歩いて行く。少女時代の決別とともに、物語は幕を閉じる。„


 家を出る前夜のことを冒頭に持ってくることで、苦労知らずの少女がなぜこのようなリアリストになってしまったのか、過去に一体なにがあったのか、まず謎を配置するサスペンスの手法を取り入れながら、読者の興味をぐっと引く。そして佳穂の日常生活、父親の病気による二宮家の崩壊をじわじわ描きながら、とことん彼女を追い込んでいく。絶望の淵で見つけた答えがテーマの「自立」に繋がっていく。強い動機が芽生えたことで主人公の行動は徐々に変わってゆき、最後に少女時代の終わりとして卒業式を持ってくる。

 書きたいことをとにかく詰め込んでいた頃と比べて、書くものがちゃんと「物語」になってきていると自分でも思う。明確なテーマの設定、テーマに合う主人公の造形、読者に興味を持ってもらうための工夫……、これだけのことを意識できるようになったのは、小説の神様がいきなり降りてきたわけでも、才能が突然開花したわけでもない。

 書き上げた作品がある、書けないときには書けないなりに読書をしてきた。試行錯誤とインプットを続けてきた成果が実を結び始めているだけのことだ。

 残す展開は卒業式のみで、明日には完成する。二月中旬から三週間近く必死に食らいついてきた。左手の痺れ、全身の張り。明日ピリオドを打ったら、二日休みを挟んで、それから推敲に取り組む予定だった。

 ところが、詩織はここに来て、二宮家のごたごたでしか話が動いていないことに、ふと引っかかった。

 精神的に不安定で、猜疑心から娘のデートをストーキングする父親。病状が悪化していく夫と、気味が悪いぐらいしっかりしてきた娘との間でおろおろする母親。姉のつくった料理にケチをつけたり、親が留守だからとゲームばかりしている生意気な弟。

 二宮家の設定や展開はよく練られているのだが、女子中学生のビルディングスロマンを書きながら、作中で佳穂の学校生活についてほとんど触れていないのが大きな問題に思えてきたのだ。

 書いている間は、佳穂が家を捨てたくなるように、捻れていく家族との関係や家庭内の問題ばかり考えてきた。

 しかしどうだろう。佳穂の身に起こる問題は果たして家の中だけだろうか。美少女とまでは言わないにしても、佳穂はオープンキャンパスで他校の男子生徒から声をかけられるぐらいには魅力的な子である。仮に彼女が自分の魅力を鼻にかけることなく謙虚に愛想よく振る舞える子だとしても、むしろクラスでの立ち振る舞いが上手ければ上手いほど嫉妬の一つや二つ買うはずでは?

 そう考えると、これまで考えてきた話がガラリと変わってくる。いまの話だと父親がうつ病になったことを誰にも知られることなく卒業式まで迎えるのだが、最後までそう上手く隠し通せるものだろうか。

「顔色悪いけど大丈夫?」と周りの子に心配されるほど追い詰められていたら、仲のいい子にだけは悩みを打ち明けるのが自然じゃないだろうか。友達に悪気がなかったとしても、その話がクラスで広まったら? 判で押したような安っぽい気遣い、ここぞとばかりに佳穂に言い寄る男の子、佳穂のことが嫌いな女の子はどういう行動を取る?

 父親の秘密をばらしたのが仲のいい友達じゃなかったとする場合、心療内科に通っている父親をクラスメイトの親がたまたま目撃した、平日の昼間からだらしない格好で近所を散歩している姿を目撃されたら?

 二宮家のごたごたを少し削って、学校のエピソードをいくつか加えられたら『青い檻が破れてから』はよくなる。

 だが、これは中古車を新車並に磨き上げる作業とは違う。Aメーカーの商品をBメーカーの――それもBメーカープラスにつくり替えるほどの修正だ。

 下書き原稿と清書原稿を見比べながら、

(いまからそんな修正無理だ)と詩織は頭を抱えた。

 むしろ自分の考えすぎであって、学校生活に筆を割くことで作品のバランスが崩れる可能性だってある。「二宮佳穂の自立」をテーマとして貫くのであれば、学校の話は「ベタな思春期もの」として当初のテーマを弱めてしまわないか。

 と、散々悩んでいるふりをしながらも、これらの葛藤がすべて書き直したくない言い訳だと詩織は分かっていた。書き直したほうがよくなると分かっていても、だ。

 この状況で一番賢い選択は、目の前の原稿をひとまず仕上げてから、余力があれば大工事に着手することだろう。大工事は無理だと判断した時点で即座に中止、そのときは魅力的な改稿案のことは潔く忘れて、あとは従来の原稿をよくすることだけに全力を尽くす。

 選択としてはこれしかないのだが、詩織は未練がましく原稿を見ていた。

(これが私の遺作になっても本当に後悔しない?)

 自問自答を繰り返している間にも、時間は刻々と過ぎてゆく。

 日が長くなってきたとはいえ、五時を回ればもうすぐ夜が来る。

(今日中に腹を括るしかない)

 最後にもう一度だけ目を通してから決めようと、原稿を手にしたときだった。

「お嬢さん、お悩みのようだね」と不意に話しかけられた。

 びくっと顔を上げたら、ニコニコ顔の文雄が目の前にいた。

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