第十三話(一)

 文雄と過ごした最後の日々を、詩織は生涯忘れることはなかった。あんなにも楽しくて、真剣で、幸せな日々を忘れられるはずがない。


 はじめの三日は前日書いた手書き原稿を学校で渡して翌日清書原稿を受け取る。そしてまた手書き原稿を彼に渡す、そういうやりかたを取っていたのだが、このやりかただと一日ラグが発生する上にすぐに修正できない(データでノートの画像を送ろうとしても、詩織の携帯は古い型で写真写りが悪く、プリンターにもスキャナー機能がなかった)。

 そこで詩織のほうから、放課後、文雄の家で下書きをさせてもらえないかと相談を持ちかけた。進捗具合が想定していたよりもよくなかったのだ。

「どうかな?」と詩織が提案したとき、普段飄々としている文雄もさすがに動揺していた。小説の執筆のためとはいえ、男の子の部屋に上がる、詩織だってまるで気にしないわけではなかったが、そこは彼を信じた。ここまで信用されている以上、たとえ親が家を空けている日であっても、邪な想像だけでぐっと堪えるしかない。とはいえ、彼だって聖人君子じゃない。時折それらしい目を向けられると、(肩の一つや二つは抱かれても……)と、生殺し状態の彼に申し訳なく思うこともあったが、あいにくストロベリーな時間に流されている余裕などなかった。

 二人のコミュニケーションは、いつだって激しい言葉の応酬だった。

「分からず屋!」

「ここ抜いたなって文章はひと目で分かんだよ!」

「抜いてない。あえて文章の密度を薄めただけだよ。懇切丁寧に書けばいいってもんじゃないでしょ。そんなことも分からないの? いいからいま渡した分さっさとワードで清書してよ」

「いーや、俺は今日から納得できない内容だったら清書しないことにします」

「はぁ!?」

「ここ最近の文章は慎重に組み上げているんじゃなくて、迷いがね、迷いが出てるんですよ! これまでのようなキレがなくなってますよ、詩織さーん」

「前々から思ってたけど、文雄の言うことってどこかふわっとしてるよね。それっぽいこと言ってるようで内容が浅いよ! だからいっつも新人賞一次落ちなんでしょ!」

「それはいま関係ないっつうの! ほら、無駄口叩いてる暇あったら一行でも書く書く。六時になったら帰るんでしょ?」

 もし詩織が男だったら、いつ殴り合いに発展してもおかしくないほどの激しさだった。それだけこの作品にかけていだ。

 詩織は中学生活の集大成として、文雄はこの町で書く最後の作品として。

「今日も元気にやり合っているわね。コーヒー入れたから二人とも少し休憩しなさいよ」

 引っ越しの準備がある中で、息子がいきなり女の子を連れ込み始めた、それだけでも大変なことなのに、その女の子は彼女でもない。そして二階で毎日のように怒鳴り合っている。どう考えても詩織はとんでもなく非常識極まりない、息子についた大迷惑な虫もいいところなのに、文雄の母親はいつもコロコロッとした優しい笑顔を浮かべながら、飲み物やお茶菓子を出してくれる。二階で怒鳴り合っているのも、「若い子は元気でいいわねぇ」とおおらかなものだった。

「若い子達が一生懸命なにかを頑張る姿って、見ているこっちまで楽しくなってくるんだから、ふーくんにとっても、しーちゃんと過ごした日々はきっといい思い出になるはずよ」

「そうなの、ふーくん?」

「そうですよ、しーちゃん!」

 文雄の母親が来ると、いつもこんな感じだった。

 物語が佳境に入ってくると怒鳴り合っている暇さえ惜しくなり、放課後から六時までの一時間半では時間が足りなくなってきた。

「あと一時間頼む!」と文雄が七時まで延長させてほしいと母親に頼み込んだときには、詩織もさすがに「これ以上迷惑かけられないよ」と遠慮した。しかし、文雄の母親は「うちは全然構わないわよ」と、二人の頑張りをどこまでも応援していた。

「でも、しーちゃんの親御さんが心配するんじゃないの?」

 その通りだった。そもそもの話、詩織の両親にしてみれば、いくら文雄のことを知っているとはいえ、たとえ彼が好青年であったとしても、付き合ってもいない男女が連日二人きりで同じ部屋にいる。小説の執筆もどこまで本当なのか分からないのだから心配で堪らないはずだ。その上、「さらに一時間帰るのが遅くなるかもしれない……」と言い出したら、激怒するに決まっている。今回は父親も「彼をいっぺん連れて来い!」と声を荒げた。

『いえいえ、うちは大丈夫ですよ』

 この修羅場を収めたのは、やはり文雄の母であった。

『息子が万が一変な気を起こしたらアレを切り落とした上でお詫びいたしますから、一生懸命頑張っている子ども達を信用して、どうか一緒に見守っていただけないでしょうか?』

 電話のあと、母親は詩織に

「中途半端なことだけは絶対にしちゃ駄目だからね」と真剣な表情で言い聞かせた。「あんた達のこと、おじいちゃんも見てるわよ」

 こうして詩織と文雄の共同執筆は両家公認のもと、ますます熱を帯びてきた。

 ある日、二人は休憩中にこんな話をした。

「小説は一人で書くものだって、その思いはいまでも変わらないけど、書くときは一人でも……こう、なんだろう。原稿に夢中になってる間はなかなか気づかないだけで、私達って色んな人から支えられてるんだね」

「同感。俺も最近お袋が仏様に見えてきた」

「追いかけてるものが大きければ大きいほど、そのうち一人じゃ進めなくなる。そんなとき、応援してくれる人がいるって、そのことがどれだけありがたいか……そういう支えがあって、ここに立っているんだなってこと、忘れちゃいけないね」

「柳間、いまいいこと言った。俺、引っ越してもその言葉ずっと覚えとくわ」

「……なんか、十代喋り場みたいになってきた」

「……俺もだんだんこそばゆくなってきたわ」

 小説ではどんな青臭い台詞でも書けるのに、いざ自分で口にしてみると、こんなにも恥ずかしいものなのかと、二人とも赤くなってきていた。

「私、下書きに戻る」

「俺もいままで清書した分にミスがないか見直しとくわ」

「うん。お願い」

「そうだ。今日食べてく?」

「いいの? 最近ずっと夕飯いただいてるから、そろそろ申し訳なくなってきたんだけど……」

「いいって。お袋も娘ができたみたいで楽しいっていつも喜んでっから」

「そう? なら今夜も……ありがとう」

「俺だって柳間と少しでも長く一緒にいたいしね」

 彼は最近こういう態度を隠さなくなってきている。

「おーい、なにかリアクションプリーズ」

 詩織は聞いていないフリをして執筆に戻った。

(私はそういうこと言わないから)

 少なくとも、卒業式までは。

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