エピローグ 柳間詩織は、夢見る文学少女じゃいられない

エピローグ 柳間詩織は、夢見る文学少女じゃいられない

 私の書いた本がいま売れた。

 文庫本のコーナーで山波周太郎の本を買おうかどうか迷っているフリをしながら、平台をチラチラ覗っていた詩織は、学ランの少年が新刊を手に取ったのを見て、ようやくほっと息をついた。

 ささやかなお祝いでもしよう。今日は行きつけの洋食屋でなにか食べようと幸せな気持ちでいたら、担当編集者の丹馬五郎たんばごろうから野暮な電話がかかってきた。

「げ、丹馬さん」

(どうしてこの人は、いつもいつも私が息をつくタイミングで連絡してくるのか……)

『おう、仕事してっか』

 そして、電話に出るなりいつもの挨拶だ。

「ええ、市場調査中です」

『はぁ~~』

 五郎のわざとらしいぐらい長い溜め息が聞こえてきた。

『お前、新刊出すたびに本屋でそわそわしてるよな。どっしり構えてりゃいいのによ、そんなんだからいつまで経っても雪ヶ原ゆきがはらを取れねんだよ。二十五なんだし、そろそろ一人前になってくれや』

「白峰先生と独竜斎先生がセットで選考委員を降りてくれたら取れそうなんですけどね。あの人達が毎回イチャモンつけてくるから」

『ぶちぶち言ってる暇があったら書け書け』

「分かってますよ」詩織はぶすっと答える。

(せっかくの新刊発売日がもう台無しだ)

『競争が年々激しくなってんだから、今度こそ大ヒットしてくれよ』

「分かってますって」

『話変わるけどよ、この間の大鷄会の飲みでお前、白峰に『純文学ならあなたに負けません』って啖呵切ったらしいな?』

「え、なんでそのこと……」

『女優の妃ちゃんとニヤけのっぽから聞いた』

(あいつら……)詩織は舌打ちしそうになった。

『いいんでないの。こりゃ次の作品は期待できそうだな』

 ひっひっひ、と古狸めいた独特の笑いかたも、五十歳になると、なかなか様になってくるものだ。

「あのときは酔っていたので、そういう発言は記憶にございません」

『アホ、自分で言ったことにゃ責任持て。『小説家が嘘をついていいのは物語の中だけ』――柳間語録の一つだろうが』

「……それも記憶にございません」


 たしかに時代は大きく変わった。十年前、白峰言葉が楠木賞を受賞した日、あの伝説の会見『小説時代宣言』は、一過性のブームで終わらず、いまでは読書という行為そのものが世の中のスタンダードとなりつつある。今日も本屋に来るまでの間、友達を待っているのか、それともデートの待ち合わせか、文庫本を読みながら誰かを待っている人を何人も見かけた。一時期問題になっていた『歩きスマホ問題』がいまでは『歩き読書問題』と変わり、いずれは禁止条例が出るのではないかと噂されているほどだ。

 読書人口が増えれば、自ずと作家志望者も増えてくる。出版社や作家同士の競争が激しくなってきたことで、力のない作家(白峰風に言うなら「豚カツに勝てない作家」)は、どんどん消えてゆくようになり、何十年とこの業界で生きてきたベテランでも、三作連続でこけたらすべてを失う、作家業はこれから先ますますシビアなものとなってくるだろう。本物の作品しか出回らないのだから、読む側にとってはバラ色の時代でも、書く側はそれこそ一作一作死にもの狂いだ。「兼業はよほど力がないと続けられない」というのが、第一線で活躍する作家の共通認識である。文学界に革命を起こした白峰を恨みながら表舞台から去って行った作家は、一人や二人ではない。


(こうして原稿を催促されているうちが華なんだろうな)

『お前にゃ期待してるんだから頼むぜ』

 五郎は小言を「九」言いながらも、最後の「一」で作家をその気にさせるのだから、やはりズルい担当だ。すぐその気になる詩織の操縦法を心得ている。

『エッセイ、今月末締め切りな』

「分かってますよ」

『いい返事だ。これなら改稿指示も心が痛まねえな。一昨日送ってきた途中経過、大学編そこまで面白くねえから、中高生の頃のエピソードをもうちょい膨らませてくれ』

「は? ちょ、それ改稿がかなり必要になってきますよ」

『再考で改稿なんて最高じゃん』

「そういうのいいですから! ……まいったな。構成のやり直しだけじゃなくて、取材とかもまた必要になってきますよ」

『安心しろ。交通費、取材費用、遊興費は……いらねえな。こっちでバーンと出してやるから帰省でもしてこい。締め切りさえ守ってくれりゃいい』

「急すぎますよ。いつものことですけど」

『そうだ。中学高校のエピソードつったら、腕折ったときに落ちた石段の写真とか、西校時代、彩子に楯突いたのは海だっけ? とにかく使えそうな写真たくさん撮ってきてくれ』

「……どっちもあまりいい思い出じゃないんですけど」

『いいんだよ。ファンがそういうエピソード喜ぶんだから』

「物好きな人達ですよね」

『おめーが言うな。あと、ずっと帰ってないんなら、おじいちゃんの墓参りにも行っとけよ。今度こそ雪ヶ原取りますって約束してこい』

「そうですね……」

 十年前に亡くなった柳間貞治との約束を守り続けてきたからこそ、柳間詩織はこれまでどんな苦境に立たされながらも、運命を一つ一つ切り拓いてきた。守れなかった約束も中にはあった。

 だが、どの約束も守ろうと本気で努力してきた。


 “着実にキャリアを積んでゆき二十五歳で雪ヶ原賞を受賞„


 あの約束をなんとしても守りたい。

 そして私は、文学界の星としていつまでも輝き続ける。

「分かりました。再考で改稿で最高。やりましょう」

 詩織は力を込めて言った。

『柳間、お前のそういうところは死ぬほど愛してるぜ』

「私も丹馬さんのこと、嫌いじゃないですよ」

『よっしゃ、エッセイで足場を固めて次こそ雪ヶ原賞取るぞ』

「ええ、次は必ず取ってみせますよ。白峰言葉も独竜斎辰雄もまとめて粉砕します」

『そうだな、夢は大きく持たねえと。アメリカンドリーム野郎と棺桶に片足突っ込んでるじじいに引導渡してやれ』

(この人は何年経っても変わらないな。出会った頃から本当に口が悪い)

「――丹馬さん、例のエッセイいまタイトル思いついたんですけど、聞いてもらえますか?」

『おお、いいぜ。聞いてやるよ。『柳間詩織の人生』ってクソだせー仮題いい加減どうにかしてくんねえかなって思ってたから言ってみ。ナイスなタイトルだったら、すぐにでも告知しといてやるから』

(それって締め切りが早くなるってことじゃ……)

 しかし、すぐに(まぁいいか)と詩織は声を立てずに笑っていた。新刊が積まれている平台を見ていたら、あの子の幻が目の前をふっと横切って行ったから。

 あの日、『水になる』を胸に抱えて、レジへ行った少女のことはいまでも覚えている。あのときの、彼女のどこか誇らしげだった横顔を覚えている限り、私はいつまでも小説を書き続けられる。

 つまり一生だ。風と共に塵となりゆく、その日が来るまで。

「中学高校の話をメインにするなら、これでどうでしょうか」

 完璧なタイトルだと確信して、のちの雪ヶ原賞作家は言った。


「柳間詩織は、夢見る文学少女じゃいられない」

  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

柳間詩織は、夢見る文学少女じゃいられない 尾崎中夜 @negi3

★で称える

この小説が面白かったら★をつけてください。おすすめレビューも書けます。

カクヨムを、もっと楽しもう

この小説のおすすめレビューを見る

この小説のタグ