第四話(三)

「豚カツに勝てか」

 ワークショップの帰り道、十一月の夜気にかじかむ手のひらを擦り合わせながら、詩織は白峰の教えを一つ一つ思い返していた。

「豚カツ……豚カツ……」

 小説のワークショップで、まさか締めの挨拶が豚カツの話になるとは思わなかった。


 ――プロを目指す気がある人は、このことをよく考えてみてください。

 財布に二千円しかない状況で豚カツが食べたい。だけど、今日は好きな作家の新刊が出る日だ。豚カツを我慢するか新刊を我慢するか。この天秤に勝てる作品こそが「商品」と呼ばれ、豚カツに勝ち続けられない作家はいずれ消えていきます。

 本なんて読まなくても生きていけるのに、人はどうして他人の妄想にお金を出せるんだろうね?


「……千葉さんもカッコよかったな」

 信号が変わるのを待っている間、詩織は彩子のことも思い返していた。

 ――二十歳までに私はプロの作家になります。

 プロの作家を前にあそこまで言い切る自信と覚悟には痺れた。

 皆で夕食を食べに行かないかと誘われたときの、あの断り文句も。

 ――あなた達、今日なにを聞いていたの? 馴れ合っている暇があったら一枚でも原稿書けば?

 才能があるからこそ孤高も暴言も許される。

 白峰にしてもそうだ。参加者全員に平等に接していたようで、彼は彩子とその他大勢の凡人達との間にきっちり線を引いていた。応募要項に「優秀作は一作だけ」とは一言も書いていなかった。白峰の性格上、出来さえよければ何作でも取り上げていたはずだ。写真撮影やサインに応じていた時間で、二時間でも三時間でも。

 けれど、白峰がワークショップで講評するに値すると思ったのは、彩子の『回転する青空』だけだった。

 ワークショップの間は残酷な線引きをなるべく見ないようにしてきた参加者達だったが、最後になってその線を見てしまった。

 彩子は「ねぇ、夕食でも……」と話しかけてきた男子学生に向かって、冷たくこう言った。

 ――お情けでサイン貰って悔しくないの?

 本気でプロを目指している彩子からすれば、他の参加者達はアイドルの握手会ではしゃいでいるだけのファン、つくる側の人間としては全員眼中になく、志の低さに苛立ってさえいた。

「厳しい人達だな……」

 優秀作に選ばれなかったとしても、白峰からなにか一言ぐらい作品のコメントを貰えるのではないかと、密かに期待していた自分は甘かった。頑張って書いた作品なのだから彼の心に引っかき傷ぐらいは残せたのではないかと、プロの作家を舐めていた。

(楽しく書く?)

(伸び伸び書く?)

(根性論や精神論は作品を小さくするだけ?)

「――違う。勝たなきゃ駄目なんだ」

 信号が変わった瞬間、詩織は大股で歩き始めた。

 夜空に幾千の星があっても、人の目に映る星はほんの一握りであって、詩織は今日、自分が誰の目にも映らないその他大勢の星であることを思い知った。気分次第で上下する自己評価ではなく、無反応という他者からのストレートな評価で。

 今夜この手の中には、悔しさも喜びも充実感も、握り締められるものがなに一つとしてない。

(いい小説を書きたいって凄く曖昧な言葉……)

 横断歩道を渡り終えた詩織は、鞄からサイン色紙を取り出した。

 そして「こんなものっ!」と、お情けで貰ったサインを破り捨てた。

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